水場に連れてっても、飲まない馬は飲まないものらしい
変わることは、それが苦手な人にとっては、とても難しいことのようです。
そう痛感しています。自分が変わらなくて済むためなら、どんな風にでも理屈をつける…みたいな行動を目の当りにしました。
小難しく書いてますけど、一言で言えば「言い訳」が好きな人が、ちょっと身近にいるということです。今のままでよいための「言い訳」をすることが、どんな行動原理よりも最優先で働くようです。
いや、もちろん、誰にでも多少はありますよ。私は大丈夫と思っている人ほど、罠にはまっていたりするものだから、こういうことを書いている時点で本当は自分こそ、振り返った方がよいのかもしれませんけど。
でもね…。そうですね。別の切り口から言えば。
仏の顔も三度
って言葉があるよねってことなんです。
鳴かぬなら、待っても鳴かないこともある
そもそも私は、仏と表現されるような人格とは程遠い、そもそも超絶気が短い方なので。いわゆるその「三度の我慢」にしたって、結構頑張って食いしばっているつもりなんですけども。
待ってみよう。
鳴かせてみよう、で無理なら、鳴くまで待とう、ホトトギス。
…とかなんとか言い聞かせて、気持ちを切り替えたり、アプローチ工夫してみたり、ね。
でも、仏だって、仏ですら三度なんだよ。
私、程遠い短気は損気野郎なのに、三度どころか、カンストするぐらい待ちましたよ。たぶん…(色々トホホ)。
鳴くまで待つんだけれども、その一方で。
待ったからとて、全てのホトトギスが鳴くとは限らないということも、よく覚悟しておきなさい、ということかもしれません。
場づくりでも
対話の場を設けようとしても、本当に絶対鳴かないホトトギスが居たら? 実際、そのようなチクリとするものを感じる場面って、経験的にゼロではないですけど。
場づくりのリアルタイムの中では、表現はちょっとイマイチかもしれませんが「損切り」的な発想も必要なのかなぁ。
例えば、期待する方向とは真逆に、対話ではない方に引きずり込む、しかもフェアでないおかしな力が巻き起こるとき。
そこでギリギリ他の参加者のために出来ることは、一旦その場を無理やり締めて、それ以上にならないようにする、とか。
そういう場合もあるかな。それも、本当は大事なことなのかなぁ。