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私は、常にそんなにゆっくりは生きられない

人の生きている時間の早さは、違うような気がずっとしています。

これは、人生で与えられている天寿の違いとか、そういう大枠で見た尺の事ではなくて、外界の尺度で同じ1秒の間に脳が体感している時間というか、ある意味『歩く速さ』みたいなものだと思います。

歩く速さ、本を読む速さ、一人一人もちろん違います。それは仕方ないともいえるし、だからこそ力を合わせたとき無限の可能性につながるので、それ自体はむしろ違ってよいよねという素敵なこと。

私も歩く速さが速い方ではないし、走ったりしたらもっと悲惨なことになるフィジカルだし。

だけど、組織というのは難しい。そこに横たわる論理は、『対話』一択ではないから。トップが決める、権限の元が決めるという機能がありきだから。所属することを選んだのは自分だから仕方ないともいえるけど、とにかく、決定内容自体はともかく、『遅い』というのは時に看過しがたい。

そして、『遅い』結果出てくる決定自体が目も当てられないこともある。せめて時間かけたならもう少し真っ当な戦略出すとか、100点でないなら早めに動いて、その代わり走りながら柔軟に変えてゆくとか、なんかあるだろ! と思ってしまうわけです。いや、だからそれを自分で選んでるんだろうって言われたら、そうだなぁ…じゃあどうしたらよいかなぁとも自分なりには考えるわけですが。

でも、そもそも、目も当てられない決定だとしても、出てきたらまだよい方で。『あれ、どうなった!?』みたいに闇に消えていく怪奇現象もまれにある。

さすがにそれだけは、怖いんですってば!

私の生きる速さは私だけのもので強制はできないですけれども、それでも私は常にそんなにゆっくりとは生きられないのです。だからやはり、あまりにも硬直したところにいるのは息苦しい。

こういう方向性で進めてよいですよね、時間の配分具体的にこれでよい? と、仮の形にしたうえで「はい」「いいえ」で答える問いにしても、なお回答が来ない。

そんな中で、最後の詰めどうする、という正念場の場づくり中。

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