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行動力がありすぎて、同時になさすぎる自分を切り分けないと

今日、これまた大分ささやかなレベルで、やりますと引き受けてもよいし、素通りしてやらなかったとしても、おそらくそれほど困らなかっただろうな、という選択肢がありましてて。

「あ、どうしようかな」から「やります」の間に、実際には10~15分くらいインターバルがありました。しかも、もう一回ダメ押し的な外部の働きかけがあって、ようやく、とっさに手を挙げた、みたいなグダグダ感。

だったら最初から、その10~15分をかけずに、前に進めなかったのか。
進めなかった理由はどこにあるのか。
その隙間を、今よりあと少し縮められないものだろうか。

そんな思いになりました。

ある人たちから見た私は、行動力がありすぎて、異質で。
「ちょっと、ついていけない」と、ポカンと見送られる。
そんな人物像なのだろうなぁ、と感じる時があります。

その一方で、私の数百倍も疾走感のある人たちに囲まれると。
いちいち逡巡を繰り返す自分の決断の煮え切らなさ、アクションの遅さに「なんだよ、何やってんだ!」と強く思うばかりの時もあります。
今日、まさにそれでした。

周りの前のめりに追いつけなくて、自分を叱咤する辛さと。
「ちょっと、ついていけない」と眺められる、訳の分からないがんじがらめさと。

二つを比べたら、どちらがより耐えられるものか。
それは前者だよな、と思うのです。

周りのことを「スゲー、カッコイイ…」と素直に受け止められて。
その中で、自分が周りについていけない、でもついてゆきたい、追い越したいともがく辛さの方が、まだしも小気味いい。
苦笑いしながら、ニセモノの憧れや尊敬風の言葉をかけられるよりは。

でも、そんな風に思うこと自体、私の器の小ささなのかもしれなくて。
結局、私が変わらないと、ゆく道はどうにもならないのだ、とも思います。

今、みんなでファシリ計画として、別の方に依頼している場づくり。
何だかちょっと、状況というか、進捗が見えづらくなってまして。

何か、次の動き、働きかけをしなくてはいけない感覚はあるけど。
その時、自分の中の未分類の葛藤に振り回されないようにしないと。
何かをかけ間違えたら、自分で大事なものでも壊してしまいそうです。

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