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9.闇色の研究「黙殺は、ときに反論より哀しい凶器」

ネガティブもポジティブも、突き詰めると同じところにたどり着く。ヒントは、コインの裏側に潜んでいたりする。

「窮屈」と「退屈」を敢えて生産し続ける構造、仕組み、何かそういうプログラムがわざわざ組まれているような気まり悪さがあるのです。

「何かをしない」という行動に敏感でいたい

私の場づくりへの思いを生み出す、闇色の声の一つ。

「周りがこうやっているから、正しいはずだ」

さすがに、この言葉そのものをドーンと放つ人には、そうそう出会うことはありません。でも、よく考えるとそういうことだよね、と思う場面はあります。

私は時々「選択しないという選択」のような言葉を使ってしまいがちです。何かをしないということは、それ自体が一つの行動だと、なるべく意識的に考えるようにしている自覚があります。

分かりやすいところでは、いじめ問題ですね。
直接いじめに加担しない(と、本人は思っているだろう)けど、黙認するという行動をとる、周りの人。

「黙認することもいじめ」だよね、と言う問題。

もちろん、実際には「何か目立つことをして、自分もいじめられたら」という恐怖が生まれる状況であることは容易に想像できますので、気持ちは理解できます。ただ、それでも「黙認することもいじめ」であるという事実に、変わりはありません。そこに情状酌量の余地がある、状況によってはカルネアデスの板的な見地から、もしかしたら黙認することが、その人にとって、必死の緊急避難なのかもしれない、簡単には責められないかもしれないね、というだけです。

純粋に、いじめられている人にとっては「黙認することもいじめ」です。

周りがこうやっているから正しい、は無言で語られる

「周りがこうやっているから、正しいはずだ」という声の記憶を紡ぐと、実はそこには、実際に語られた言葉がありません。

黙殺。
そう、黙殺という行動が、そこにあるのです。

例えば、既にある枠組みであっても、変化とともに見直す時期になったりすることは、往々にしてあります。短期的に見れば問題ってわけじゃないけど、このままだと緩やかに減退していくのが見えているから、こういう風に変えてゆきましょうとか。

そういうお話をしたときに、たとえば頑なに反論してくる、というのも、それはそれで度を越せば少し困るかもしれませんが、少なくともコミュニケーションを図ってくる姿勢がそこにはある。ゆっくり解きほぐして行けば、どこかで対話のラインに立てることも多いです。おそらく、反論してくる人というのは、たとえ頑なだとしても、少なくとも「自分事」にはなっているからなのでしょう。

でも、黙殺はそれより厄介です。黙殺を解きほぐす正道みたいなものを、私は見つけられていません。そして、よくよく観察していると、そういう黙殺する人の背後に「周りがこうやっているから、正しいはずだ」という言葉が見え隠れすることがあります。この声なき声が出てきてしまうと、どうしてよいのか、私にはまだわかりません。

なお、黙殺する人すべてが、この声に当てはまるわけではありません。
過去に何かとても「残念な出来事」「トラウマになる体験」があって、当事者意識を持つこと自体に忌避的になり、意思をもって黙っている場合もあります。
その場合は、頑なに反発してくる人と同様に、信頼を取り戻すことができれば対話のラインに乗ってくれることがあります。

「自分事」というキーワードはワークショップデザインを学ぶ中で出てくる重要ワードなので、そこには何かヒントが眠っているのかもしれない。いつか、私なりの答えを見つけられたら良いなと思います。

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