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6.闇色の研究「失敗させてもらえなかった」
ネガティブもポジティブも、突き詰めると同じところにたどり着く。ヒントは、コインの裏側に潜んでいたりする。
「窮屈」と「退屈」を敢えて生産し続ける構造、仕組み、何かそういうプログラムがわざわざ組まれているような決まり悪さがあるのです。
世界は「やったことがない」にあふれている
私の場づくりへの思いを生み出す、闇色の声の一つ。
「やったことがないから、わからない」
強い言い訳とか、断固たる拒否とかでなくても、ぽろっと「やったことがない」という言葉を言ってしまうことは、まぁ、あります。仕事で、自分の習熟度を伝えないと、チームのスケジュールに影響するぜ、って時は、判断材料の一つとして淡々と伝えることもあります。(「わからない」とか「できません」は付随させないですけど)
世界は広くて、ただだか数十年、せいぜい百年生きたところで、世界は「やったことがない」にあふれたままで終わるのだから、ただ事実として淡々と述べるだけだとしても、本来は空虚な言葉なのかもしれないな、と思うこともあります。
ここまでの「別解の研究」では、ベテランの方の若手に対する態度を問題にすることが多かったですが、もちろんそんな一方通行で色々起きているわけではありません。
「やったことがない」ことに怯むのは自然なことですが、まれに「それにしたってそこまで頑なだと、さすがに困るよ」と思うくらいガチガチに自衛して、極端に反発してくる、下手すると「過剰防衛で攻撃」してくる新人若手に出会うこともあります。
まてまて、あなたは確かに「正統的周辺参加」の外側の立場なのかもしれないが、それでも大人だよな、大人なんだよな? みたいな。「習熟」じゃなくて「礼節」の問題として「ちょ、待てよ!」と言いたくなるような。
「子どもを子ども扱いしない大人」に恵まれていた
私の場合、小学生、中学生、あるいは高校生ぐらいの頃「やったことがないから○○」のような言い訳をぴしゃりと一蹴し、今の私の土台を築いてくれたのは、ほぼほぼ「美術の先生」でした。
学校とか、ローカルレベルでは図工、美術はかなりの得意分野でした。
運動会とか、学芸会とか、地域交流系の学校行事なんかがあると、先生に「この模造紙に、こういう絵を描いてほしい、校庭から見えるように」とオーダーされる「看板屋」になる程度には。
だからなのか、「図工の先生」「美術の先生」との接点も、他の子よりは多めでした。
今思えば、アートにホンキ度の高い「図工の先生」「美術の先生」って、他の先生と違って、子どもを子ども扱いしない人が多かったのです。一見、歯に衣を着せず、子どもに一切忖度しないので「大人げない」振る舞いに見える発言もありました。ちょっとでも甘い、ダメな作品を作ったら正直に手厳しい感想を言ったりするので。
今思えば、それは大人げないのではなくて「対等」だったんだなと言語化できます。当時もうっすらとは感じていて、作品を手ひどくけなされても全く嫌な気持にはならなかったのです。
でも、子どもを子ども扱いする大人が多数派だった
当時はただ単純に絵が、創作が好きだっただけですが、もしかしたら私にとって、この「子どもを子ども扱いしない大人」との接点は、とても重要なものだったのかもしれないと今は思います。
私が「やったことない」と簡単に言わないようになれたのは、この出会いの影響が大きいです。逆に言えば、他の先生はあまりそういうことを伝えてこなかったな、という印象です。
特に酷いと「教えてもないことを、子どもが知っている」ことを嫌ったり、テストの前提に別に○○で解けとも書いてないのに、教えた以外の解法で解くとバツ付けてきたりする、ちょっと頭の痛くなる大人もいらっしゃったような。不思議なことに、そちらの方が、比率としてはかなり多かったような…。
「心理的安全性」の圧倒的な欠如だろうなと
「やったことがないかわからない」は、確かに度を超すと困った態度になります。でも、子どもを子ども扱いする大人だけに囲まれたままで過ごして来たら、そうなってしまうものなのかもしれないとも思います。
そこにはきっと「心理的安全性の欠如」がある。
その人は、自分の中の基準ではなく、人が与えてくれる価値基準の世界で生きている。そうするしかなかったのかもしれない。
人の評価が軸になる世界では、失敗ができない。失敗させてもらえない。
ああ、今回は新人若手の課題ですとか書いたけど、結局戻ってきてしまいました。「やったことがないからわからない」と逃げる新人若手より、やっぱりそれを安直に憂うるベテラン勢の態度が、私は気にかかってしまうのです。
多分安心が無いからだよ。逸脱、脱線を嫌ってピリピリするような方々が上に居座ってる世界で、本能的におびえているのかもしれないよ?
まぁ、それでも、別にだから「やったことがないからわからない」が良いとも思わないわけで。克服はしてほしいですけどもね。自分自身のために。
そのためには、フラットな場づくりの積み重ねなのかなと思います。