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12/24(火) 二本松市の智恵子の生家と記念館へ 智恵子の人生と芸術に触れ、『智恵子抄』の詩がビジュアルを伴って立ち現れる
12月24日(火)、クリスマスイブは、前日の福島市での出張の機会を活用し、そのままワーケーションに。東北本線を南下して向かったのは #二本松市 。
二本松は、平成29(2017)年以来7年ぶり。7年前は、翌年に戊辰戦争150年(東北では「明治150年」とは言わない)を控えていたこともあり、二本松城跡や二本松少年隊の墓などを巡りました。
その際、行けていなかったのが、智恵子関連の場所。
智恵子とは、#高村光太郎 の詩集『#智恵子抄』に描かれた、光太郎の妻でもある #高村智恵子 のこと。
造り酒屋だった「#智恵子の生家」、また、隣には「#智恵子記念館」があります。
先週訪れた東京国立近代美術館『ハニワと土偶の近代』で、高村光太郎の名を何度か目にし、今回の旅を思い立った次第でした。
ただ、正直なところ、智恵子自身が何をした人なのか、ほとんど知りませんでした。しかし、展示をみる中で、明治から大正、昭和にかけて、女性の新しい生き方を芸術家として示した人なのだと知りました。
その過程で精神を病みながらも、『智恵子抄』でも描かれているような光太郎との愛を生きたのだと知り、光太郎の詩がありありと色彩のついたビジュアルを伴って立ち現れました。
明治44(1911)年、平塚らいてうたちが創刊した女流文芸雑誌『#青鞜』の表紙絵を手がけたのは智恵子であり、翌45(1912)年の青鞜メンバーの新年会の写真は、現在の大田区森ヶ崎で撮られたものでした。
また、昭和10(1935)年から13(1938)年まで、53歳で亡くなるまでの最晩年を過ごしたのが、南品川のゼームス坂病院だったとのこと。智恵子が非常に身近に感じられました。
その入院中に生み出したのが、色紙などを切り抜いて絵にする「#紙絵」。花、生き物、食べ物、食器など、病室で目にしたであろうものが画題となっているようでした。千数百点もの作品があるそうです。
シクラメンを描いた紙絵をハンカチにしたものを記念に購入しました。
生家と記念館の後背の山は「#智恵子の杜公園」となっています。
『智恵子抄』の中でも、ご当地にちなんだ、「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。」の一節が印象的な、「#樹下の二人」の詩碑もありました。この日は雪雲に煙り安達太良山は見えなかったけれど、#東京にはほんとの空が無い、といった智恵子が見たいと願った空を仰ぎ見ることができました。
そんな愛について考えた、クリスマスイブでした。
#みどりと文化 #歴史大好き議員
#チクメン #一所懸命 #とことん現場主義
#あなたと共に政策実現
#大田区議会議員 #庄嶋たかひろ #庄嶋孝広
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