「読まずに解く国語」
国語って不思議な科目でした。
登場人物の気持ちを考えさせられたりね。
後でわかったことだけど、これって国語を苦手にさせる訓練なんですよね。
他者の気持ちなんてわかるわけないんです。
そもそも、他者の気持ちを考えさせようとする国語の教師が、ぼくたちの気持ちを全く考えていないような言動をとったりして、国語って本当に役に立たないんだな、なんて思ったりしましたね。
というわけで、そんな国語を真面目に勉強してきたせいで国語が苦手になってしまった人たちのために、国語問題への正しいアプローチの仕方をお伝えしようと思います。
ただ、別所でお金とっちゃってるものなので、全部はお見せできません。
まあ、それでも「肝」はわかってもらえると思います。
使うのは、東京都立高校入試問題平成31年度の小説文です。
https://www.kyoiku.metro.tokyo.lg.jp/admission/high_school/ability_test/problem_and_answer/release20190222_01.html
まずは解いてから、なんて考えずに、両方画面で並べるか、問題の方をプリントアウトして、気楽に読んでみてください。
まあ、問題なんて見ないで読んでも、それなりに国語の解き方がつかめると思います。
(センター試験編もありますが、まずはこの高校入試問題の解き方を見てみてください。)
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では【3】の小説文に参りましょう。今回も、ぼくの言うとおりに目を動かしてください。勝手に問題読んだり、選択肢読んだりしちゃダメですよ。
小説文の読解も、論説文同様、「書いてある通りに言い直す」のが基本です。
小説文になるとよく、「行間を読み取れ」などという何のヒントにもならないことを言う国語教師がいますが、「それ、どうやるのか教えてくれよ!」って気持ちになりますよね。
このことにぼくなりの見解を示しておくと、「行間を読み取る」というのは「書いていないことを想像する」のではなく、むしろ、ちょっとした細かい表現を見逃さないことです。
その意味で、論説文であろうと小説文であろうと、傍線とその前後をよく読むということは何ら変わりありません。
では行きましょう。
小説文ではまず冒頭の説明を読み、主要登場人物をおさえる。
小説文問題の場合、冒頭に説明が付いている場合があります。これは、出題者が必要だと判断して付け足したものですから、しっかり読みましょう。誰か音読してみてください。
登場人物を列挙してみましょう。
馬淵(主人公?)、菊枝(馬淵の妻)、珠子(長女)、志穂(次女)、七重(三女)、
馬淵の母=七重の祖母(鬼籍)
この6人ですね。
次に、〔注〕も念のため先に見ておきます。
今回は、「姉――東北で母と暮らす馬淵の姉」とあります。
これも登場人物に加えておきましょう。
では、問1です。論説文では、まず本文の傍線部を見ましたが、小説文では、設問の方を見ます。(ただし、選択肢は読まないのは一緒です。)
「何日かすると、馬淵には馴染みの深い郷里の産物を土産に、母がいそいそとやってくる。」
「この表現から読み取れる母の様子」を答えさせる問題です。
最初の公式です。
小説文では、素直に傍線部に答えを求める!
はい、傍線部から母の様子を探してみてください。(10秒)
☟
「母がいそいそとやってくる」
ここですよね。立派な「様子」です。
でも、さすがに、これで答えとはなりません。
なぜ「いそいそとやってくる」のかが訊かれているのです。
例のごとく、前の一文を見ましょう。
ここには「いそいそ」の理由はありません。
前の段落を見てみましょう。
「母の様子がおかしくなると、姉が夜遅くなってから電話をよこす。」とあります。
「母の様子がおかしくなる」ことが、「母がいそいそやってくる」ことに関係がありそうです。
では、「様子がおかしくなる」とはどういうことなのか、さらに前の段落を探りましょう。
「年老いた母が、時々はらはらするような一人旅をして馬淵のところへやってくるのは、たとえ何日かでも孫たちと一緒に暮らしたいからであった。」
「様子がおかしくなる」ことの説明より先に、一文目にすばり「やってくる理由」が書いてありましたね。
母がやってくるのは、「孫たちと一緒にくらしたい」からなんですね。
「様子がおかしくなる」ことの説明も次にありますね。
「母は何十日かにいちど理由もなく生気を失うことがある。」
これですね。
次の文で、この様子のおかしさは、「持病のせいではない」ことがわざわざ書かれています。
書いてあったことを単純に結び付ければ、馬淵の母は、
「孫たちに会いたくて」「様子がおかしくなる」それで呼ばれて「いそいそやってくる」
ということがわかります。
というわけで、この情報をもとに選択肢を選んでみてください。(30秒)
☟
もちろんエですね。
次に問2を見てみましょう。
「「……そうでした、お父さん?」と長女が首をかしげながら馬淵に訊いた。」
「長女が首をかしげながら馬淵に訊いた」わけを答えさせる問題です。
ちょっと余談ですが、ぼくはこの長女の発言の表記が気に入りません。
「……そうでした? お父さん」の方が正しいと思います。「首をかしげながら」訊いているわけですから、「そう」が指す内容を疑問に思っているわけですよね。ここに疑問符が無いと読者を混乱させるように思えます。
余談と言いながら、意外と問題の本質に迫ってしまいましたね。
「長女が首をかしげながら」訊いたのは、素直に傍線部に答えを求めれば、「そう」が指す内容を疑問に思ったからですね。
というわけで、「そう」が指す内容がわかればいいわけです。
指示語なので前を見ましょう。
「「でも、お祖母ちゃん、とうとう名前が憶えられなかったね。」
と次女が笑っていった。」
ここですね。
後ろも見ましょう。
「「多分、志穂のいう通りだったろうな。」と馬淵は答えた。」
とあります。
つまり、会話の流れはこうです。
次女(志穂)「お祖母ちゃんは、白木蓮(はくもくれん)の名前が憶えられなかった」と発言。
長女(珠子)「そうでしたっけ?」とお父さん(馬淵)に訊く。
父(馬淵)「多分、志穂のいう通り」と答える。
単純に次女志穂の発言に疑問を持って、お父さんに志穂の発言は本当かどうか訊いたわけです。
では、この情報をもとに選択肢を選んでみてください。(30秒)
☟
簡単ですね。
イですね。
やったことを公式化しましょう。
会話は前後を読み、流れを単純化(図式化)して理解する!
全体から何となくで感じとるのではなく、情報を選り分けて、証拠となるポイントを取り出し、確信をもって答えるというのは、国語に限らず、あらゆる問題を解くうえでの基本です。必ず身につけてください。
問3にいきましょう。
「馬淵は、遠くなった記憶を引き寄せながらいった。」
「この表現について」訊いています。
素直に、傍線部の表現を見ましょう。
「遠くなった記憶」を「引き寄せる」とはどういうことかと訊かれているんですよ!
「遠くなった記憶」は、もちろん「忘れていたようなこと」でしょう。
そして、「引き寄せながら」ということは、「思い出そうと努力している」ことが伺われますよね。
この情報をもとに、選択肢を選んでみてください。(30秒)
☟
どうですか?
この問題で、「これって説明的?」とか「これって感覚的?」とか「これってたとえ?」とか「これって対比?」とか考えた人、残念でした。
せっかくポイントを整理したのに、そんなところに目が行くのではどうしようもありません。
「思い出そうと努力している」ことが書かれているのは、ウしかありません。
素直に読み取り、その情報からわかることだけで、答えてください。なんとなくで答える人に未来はありません。
問4にいきます。
「この樹は、辛夷(こぶし)ではないが、人間なら血液にも等しい辛夷の樹液が流れている。」
「この表現から読み取れる馬淵の様子」を答えさせる問題です。
これは困った問題です。
この表現に、馬淵の様子なんか書かれてないでしょ。
おそらく、「こう考えた馬淵の気持ち」を訊きたかったんだろうと思います。
余談になるけれど、こういう訊き方をする変な問題が多いせいで、国語に苦手意識を持つ人が増えるんだと思うんです。
国語の先生なんだったら、ちゃんと相手にはっきりわかる言葉で訊いてほしいよね。
さて、こういう場合のアプローチも、いつもと同じだから安心してください。
まずは傍線部をしっかり読む。
ポイントは「人間なら血液にも等しい」というところでしょう。
これはどういう意味ですか?
こういうのを「ふつうの国語の先生」は勝手に「大切なもの」だとか「解釈」しちゃうんです。そして、君たちもそういう「勝手読み」のクセがついてしまう。
素直に、「辛夷の樹液」=「人間の血液」と(馬淵が思っていること)だけ読み取ってください。
つぎに前後を見ましょう。
後ろに、
「馬淵はそう思ってこの樹を買い、」
とあります。
傍線部が「馬淵の思い」だということと、「馬淵がその樹を買った」ことがわかればここではいいでしょう。
次に前の段落を見ます。
「男の話によると、」と始まっています。
(前から読んでいないぼくたちには)誰だかわかりませんが、「男」が何かを説明している箇所です。
こういう馬淵の気持ちに直接言及していない箇所はいったんパスします。
もう一つ前の段落を見ましょう。
「なにを探しているのかと訊かれて、辛夷の苗木が欲しいのだが、と答えると、辛夷はないが、辛夷を台木にして白木蓮を接ぎ木したものならある、と職人風の男はいって」
とあります。
ここから何がわかりますか?
☟
まず、「馬淵が辛夷の苗木を欲しがっていた」ことがわかりますね。
そして、「辛夷がなかったこと」と「辛夷に白木蓮を接ぎ木したもの」を馬淵が買って帰ったのだということも、ここでわかります。
そのときの馬淵の思いを訊かれていたんでしたね。
傍線部から素直に答えられないときは、論説文のときと同じで、記述問題の解答をつくってから、選択肢と照らし合わせます。
「この樹はもともと欲していた辛夷ではないが、人間で言えば血液みたいな、辛夷の樹液が流れている樹なんだ。」
解釈を加えず、素直に読み取れることを並べるとこうなります。
「もともと欲していた辛夷ではないが」
「辛夷の(人間で言えば血液といえる)樹液が流れている」
さあ、これで選択肢と照らし合わせてみましょう。(30秒)
☟
どうですか、十分この情報で答えられそうですね。この二つの要素が入っているのはイでしょう。
「人間で言えば血液みたいな樹液が流れている」というのを、出題者は
「本質的な部分では同じ」
と解釈しているわけですね。
まあ、「もともと欲していた辛夷ではない」という要素が入っているので、イで間違いないのですが、完全に論理的に考えた場合、エの選択肢を否定しきれるのかという疑問がぼくにはあります。
もちろん「職人風の男から矢継ぎ早に勧められ」たことも、「断れなくな」ったことも、「買うための理由を考えて自分を納得させている様子」も、そんなことは本文のどこにも書いてありませんが、それが違うと言い切れるだけの材料も記されていない。
エの「解釈」も否定しきれない。その可能性は十分ある。
でもね、結局ね、国語はそうやって「解釈」する科目ではないんです。
はっきり書かれていることだけを証拠として挙げる科目なんです。
その可能性は十分あっても、ちがう可能性も十分ある。そういうものじゃダメなんです。
前から言っている通り、国語は、本文に書いてある言葉で言い換える科目なんですね。
問5にいきましょう。
「「ええ、ぼつぼつ咲きはじめたようです。」」
「このときの馬淵の気持ち」を答えさせる問題です。
後ろを見ましょう。
「馬淵はそう答えながら、」「出がけに一枝折ってくるのだったと思った」
とあります。
「そう」が指すのが傍線部ですから、傍線部の「とき」の気持ちを指すのは、まさにこの
「出がけに一枝折ってくるのだったと思った」
でしょう。
では、なぜ、そう思ったか。
これは、傍線部の前を見ましょう。
「(母が)「お前方の田打ち桜は、はあ、咲いたかえ?」と呂律の怪しくなった口で囁いた。」
とありますね。
この言葉を聞いて、(「ええ、ぼつぼつ咲きはじめたようです」と答えながら、)「出がけに一枝折ってくるのだった」と思ったんです。
大丈夫ですね?
母が「田打ち桜は咲いたか」と尋ねた。
↓(「ぼつぼつ咲きはじめたようです」と答えながら)
馬淵は「一枝折ってくるのだった」と思った。
こういう関係です。
記述問題として回答をまとめてみましょう。
「母に家の田打ち桜は咲いたかと訊かれ、花の咲きはじめた枝を持ってくれば良かったと思う気持ち」
これくらいですね。
「母に田打ち桜は咲いたかと訊かれた」
「枝を持ってくれば良かったと思う気持ち」
この情報で選択肢を選んでみましょう。(30秒)
☟
「枝を持ってくれば良かった」という要素が入っているのはアだけですね。簡単ですね。
国語とは結局なんなのか、少しずつわかってきたでしょうか。
勝手な解釈を施すことなく、丁寧に書いてあることを読み取る。こういう「動き」を身体にしみ込ませていってくださいね。
ちなみに、正答率は、〔問1〕51.8%〔問2〕90.9%〔問3〕40.5%〔問4〕69.3%〔問5〕66.0%でした。
なんで、〔問1〕とか〔問3〕とか、こんなにみんな間違うんだろ、って思えるようになってください。