Shoji Teruya(Ars Lab)
これからに向けた未来へ紡ぐ自分語りである。
ここ一ヶ月無気力だ。 生活の為にやっている仕事と家族との時間以外は常に上の空。 そんな中でもiPhoneXとLightroomを使っての撮影だけはここ1週間地味に続いている。 カメラの事など何もわからない素人が意図など何もなく感覚だけで撮られた写真達。それでも一つの記録の形にはなるだろうと思いここに。 沖縄にあるター滝にて 6月に一度行き、写真を撮りたくてリベンジ 駐車場から川までの道中は時代を感じさせる物もの達の寂が私を滾らせてくれます。 川の中へ 蒸し暑さの中、川の気
『空虚』そんな言葉が思い浮かんでしまう5月末。 交換日記の為にPCを開いて言葉を綴ろうとしても、2〜3行書いては削除するの繰り返し、思考を回しても途中でぷつりと途絶えてしまう。 そんな日が1周間程続いている。 あたまの中は中原中也のサーカスのような音が聞こえてきそうな 脳内だけど、生き方だけは再構築したいなと思い少ない気力を振り絞る。 当初の予定では去年の春には山形の田舎に移住して、日中は漆の木と畑に向かい、夜は漆器作り。そんな生活をしている予定ではあったが行政上の都合の為
ただただ、ぼーっと過ぎて行く刻、 思考を巡らせていたのが、遠くに感じてしまうほどにここ数日は無気力である。本をとっては棚に戻し、鉛筆をとっては筆箱に戻し、漆器をとっては自問自答。消えかかる灯火に注ぐ新鮮な油はなく、傍観しているのである。 新しい一歩を進むための自己否定。 問おては否定、問おては否定、問おては否定。 そして日は暮れる。 核心に行き着くまではその繰り返し。 なかなかの骨の折れる行いである。 今の私では歩むのが困難だからまた、 問おては否定、問おては否定、問おて
春を背に 蛙の夜鳴き 響きけり 蛙の鈍い鳴き声を聞きながら、なんてことはない句を口遊んでいる。 既に始まっている沖縄の梅雨を肌で感じながら。
ポストカードに写っていた『Hyde Park』の標識に昔を懐かしむ。 それはまだ私がバンドマンをしていた時、日々に追われていて、 目の前の事だけしか見えていなかった。 自分の事よりも音楽の事を最優先。 ブリット・ポップが好きで音楽を志すきっかけを作った『OASIS』は少しばかり特別だった。労働者階級の荒くれ者達だけれども織りなすメロディーは流麗で暖か味を感じる。 このPVに出てくる公園が『Hyde Park』。 個人的にここでイギリスの空気感を感じながら、弾き語りをするのが
生み出すのは私の『宿命』。 好きや嫌いではなく。 楽しいや嬉しい、苦しいや悲しいや怒りでも無く。 私にとっての何かを生み出すという事はそれらを超えて、 すべてを包み込むようなものである。 アデニン、グアニン、シトシン、チミンによって構造化された 私という人間をすべて使い切る。 それが私の理想である。 だからこそ人からの評価に基本的に左右はされない。 そして、常に思考する。 『宿命』とすら思っている(思い込んでいるだけかもしれない)生み出すという行為、 生み出されたものは果
私は本が好きだ。 読むのは勿論のことだが、装丁や紙の質感など含めて楽しんでいる。 ただ、軽めではあるが失読症の為に人よりか読むのが遅い。だいたい1.5〜2倍くらいの差がある。 たくさんの本を読みたいが読むスピードを上げるのは難しい。 その上に飽き性なので長い間同じ本を読めない。 なので、本との付き合い方を試行錯誤していこうと思う。 実際、今取り組んでいるのは 並列読書でだいたい10冊くらいの本を入れ替わりで読む。 そのうちの6冊は深く理解する為に数ヶ月を費やす気持ちで 音読
5月に入って漆器と向き合って時間は以外は家族と本と絵。 人の向けていた分の熱量がそのまま転化していく。 基本的にヒトは好きではあるのだが、会うと情報過多で翌日は寝込んでしまう事もしばしばあった。もちろん例外もいるが大体はくたばっている。 なので、今の状況は集中できる。 常に思考を回しながら、自分を深めていく為の行為に溺れていく。 ただ、懸念はある。深く潜る為に鋭角になりすぎるとクソ野郎になってしまうのと、自分の体調にまで影響が及ぶ。 だからといって、鈍角になってしまっては潜
iTunes Musicをお供に 時にはのびて 時にはかけて 時には寝転びながら 気ままに散歩する日々です。 あてもなくふらふらと もの思いに耽っては 納得したり 迷ったり 憤ったり 微笑んだり ぐるぐる思考はまわり そして巡る、血の脈動と共に
私は脳内で幾人もの人称達と時折お話をしている。 そして人と話す時も人称の使い分けをして、どの立ち位置で話しているのかを明確に区分している。 今日はそんな人称達の軽い紹介を立ち位置を書くことによって再認識しようと思う。 大きく分けると主観側に2、客観側に3 それぞれの人称がそれぞれの視点で意見をやり取りする。 もともとの幼い頃の人格の名残である僕。 少年期の強くあろうとしないと生きていくのが困難だった頃の名残である俺。 生きがいを見失い物事に対して少し引いた目線で見るよ
ぽつりぽつりと撓む世界 ひんやりとした薄明に心象を眺めてみる。 ’ ’’ ’’’ 息を潜めて ’’’’ ’’’’’ ’’’’’’ 眼を閉じて ’’’’’’’ ’’’’’’’’ ’’’’’’’’’ 耳を澄まして ’’’’’’’’’’ ’’’’’’’’’’’ ’’’’’’’’’’’’ 刻まれる時間に気にも留めず ’’’’’’’’’’’’’ ’’’’’’’’’’’’’’ ’’’’’’’’’’’’’’ あたたかさを待ち望みながら
※今日の日記はヤサグレた私の感情の吐露です。 AM3:00仕事の為に車を走らせていると、コンビニで屯して酒を酌み交わす若人達ゴミもそのままに騒いでいる。 住宅街で車を降りて歩いていると、鮨詰めになった若人達がこちらを睨みつけ罵声を浴びせてくる。 ただ、仕事をしているだけなのに。 只々、悪意を感情のままにぶつけてくる、めんどくさいので無視すると車を脇に寄せこちらの様子を伺いる。流石にみの危険を感じ後にする。 先程のコンビニに誰も居なくなりゴミだけがそのままに佇んでいる。 悲
私は規定されない 私は規定しない 私は束縛されない 私は束縛しない 私は強要されない 私は強要しない 私は自由でありたい 私は自由であって欲しいと思う。 世間ではやさぐれてしまいそうなニュースがあれば、 タイムライン上では人をハッピーにしてくれるような取り組みをしてくれる人達もいる。 後者のようでありたいと心根では思いながらも傍観者でいる。 まったくもって不健全である。 宮城県の松島に松尾芭蕉の句に浸るための旅に赴いた。 沖縄に帰って1周間後に東日本大震災が起こった。 そ
小さな頃から特別な位置づけの言葉『有り難う』、合掌と共にするのが 私個人の習わしです。。 こんなご時世だから今日は改めて向き合ってみる事にました。 そもそも『有り難う』の語源は『有り難し』といい、 『有る』事が『難い』むずかしいという 仏教に由来した言葉とされていて、 そしてそれを表すこのようなお話があります。 あるとき、お釈迦さまが阿難(あなん)という弟子に、 「そなたは人間に生まれたことを、どのように思っているか」 と尋ねられました。 「たいへん、よろこんでおります
これからに向けた未来へ紡ぐ自分語りである。 9割は自分の為、 残りの1割は失意の海で彷徨う人達にとっての 遠くに視える幽かな灯台のような存在であれたらという祈りを込めて 綴っていこうと思う。