【連載小説】アウトボールを追いかけて 第3話 「ハロウインを待ちわびて」 #4
だが、むしゃくしゃした気持ちが落ち着いてきたのか、やがてウメッチはスピードを緩め、スクールバスの停留所にもたれかかった。
近づくと、規則的に荒い息を吐きながら夜空の1点を見上げている。
白い板壁の前で肩だけが息と連動して上下していた。
「まったく、無謀なんだから。ヒヤッとさせやがって」
晃二は一歩近寄ろうとしたが、ウメッチはそれを手で制した。
そして「じゃあ、また明日」と笑って振り返ると、芝の小高い丘をダッシュして登っていった。
「なんや、人騒がせな奴やな。まぁ、気持ちはわかんないでもないけどな」
ホッとした表情で荒ケンは右手を挙げ、みんなに目配せすると踵を返した。
汗だくの顔から小さな笑みがこぼれる。
奴らからも逃れられたので、かえって気分は良かった。
「また見つかったら面倒や。今日はこのまま解散な」
「オッケー。じゃあ明日」
集団はそれぞれの帰路に分かれ、モレとブースケは近道の階段を下りていった。
もう九時半を回った頃だろう。晃二と荒ケンは袋を肩に担いで、辺りをコソコソ見回しながら帰り道をたどる。
「なんだか怪しくない? 俺たち」
人気のない道を、明かりを避けて歩いているのだ。確かに挙動不審である。
「そやな。真っ当な小学生なら今頃風呂入ってるか寝てんだろうな」
「そうか? 俺たち、いつも真っ当だと思っているけどね」
真っ当ねぇ…。顔を見合わせ同時に鼻で笑った。
時々カーテンの隙間から暖かそうな明かりと共に談笑が漏れてくるほかは、静寂に包まれている。
芝の上に捨てられたお菓子の袋が祭りの余韻を楽しむように風に舞っていた。
「なんだか、いろいろあったけど、面白かったよな」
「あぁ、ウメッチはショックやろうけど、俺らは楽しかったな」
あのときのウメッチの顔を思い出すとやるせなかった。
それにしても、である。
「ジミーらとは一戦交えないといかんやろな」荒ケンはボソッと呟く。
一人は悩んでいた秘密を暴露され、一人は恋路を邪魔されたのである。
それぞれ内に秘めた想いが痼りとなって残っているのだろう。
そのうち何かしらの衝突は避けられない気がした。
「なぁ、荒ケン。誰かこっちに歩いてくんぞ」
「一人みたいやな。別に悪いことしてないんやから、隠れんでもええやろ」
そう言って歩道に出ようとしたとき。
向こうの姿が街灯で浮かび上がり、その瞬間二人は息を呑んだ。
ウィリーだった。
「なんでアイツがこんなとこ歩いてんだ?」
二人は不思議に思いながらも、すぐ近くの物陰に姿を隠した。
「なんか悪さでもしようとしてんじゃねぇか」
物置の陰から盗み見し、変わった様子がないか目で追う。
ウィリーは急ぐでもなく、ただ黙々と規則的に歩いていた。
多少前屈みになり、両手をポケットに突っ込んで、つまらなそうな顔つきで前を通り過ぎる。
丸首のセーターの上にエアフォース(米国空軍)の革ジャンを羽織り、両膝がすり切れたジーパンを穿いていた。
「どうや? 尾行してみんか」
荒ケンは少しずつ離れていく背中から目を離すことなく言った。
身長が170センチ以上あるので、遠目で見ると後ろ姿は大人に見える。
晃二は躊躇した。後ろめたさはあったが、興味がないと言えば嘘になる。
「そうだな。ちょっと気になるもんな」晃二は、言い訳がましく返答した。
息をひそめ、少し距離をとってあとをつけていく。
お互いの足音は闇に吸い込まれたかのように無音で、それが却って緊張感を高める。
家がまばらになり、街灯の頼りない明かりが革ジャンを暗く照らし出していた。アスファルトの路面は雨に濡れたように黒くぬめって見えた。
ウィリーはハーフだが、外見はほとんど黒人である。
身体がでかく、無口で強面なため、進んで話しかける奴はほとんどいなかった。
本人も自らクラスに馴染もうという気はさらさらないらしく、自然と垣根ができていた。
ただ荒ケンだけはいつも、「アイツの自由や」と言って咎めなかったが、日頃の彼の人を見下すような態度には、周りの連中の非難が集まっていた。
触らぬ神に祟りなし、なのだろう。牙を剥かれるのを恐れて、みんな無関心を装って避けていたのだ。
話によると、中学生でさえもウィリーに手を出す者はいないらしい。
かと言って、子分を作って引き連れるわけでもない。そもそも人付き合いが苦手なのだろう、誰かと一緒にいるところなんて見たことがなかった。
晃二は五年生の春、席替えで偶然隣り同士になったことがあった。
その際、晃二が自己紹介しても「おぅ」と、ぶっきらぼうに答えただけで、机の穴に鉛筆を突き刺し、誰かが詰めた消しゴムのカスをほじくりだしたのだった。
ムッとはしたが、その横顔を見ると、そこには拒絶というよりも、何かを諦めたかのような、寂しげな表情が浮かんでいたのを憶えている。
しかし、一度だけウィリーの方から話しかけてきたことがあった。
それは学級会でクラブ活動の決定をしているときだった。
騒がしい声の中、自分と同じクラブに入る奴がいるかと周りを見回していた晃二に向かってウィリーが話しかけてきたのである。
「小坂はナニ部入るんだよ」
いきなり訊かれたので、決めていたはずなのにすぐに答えられなかった。
「…… オレ? オレは美術部だけど、何で? 山脇君は何に入るの?」
「…… 別に決めてねぇよ。じゃあオレも美術部にするっかな」
ウィリーはからかっているのか、本気で言っているのか解らなかったが、用紙に〝びじゅつぶ〟と書いていた。
「ほんとに入るの?」
「別になんだっていぃんだよ。どうせ出ねぇんだから」
間延びした声で答え、ウィリーは机に脚をかけて天井を見上げた。
会話はそれが最後だった。と言うのも、翌日、一番後ろの席の女子が黒板が見えにくいと言うので、先生がウィリーの席と入れ替えてしまったからだ。
もう少しウィリーという人間を知りたいとは思ったが仕方ない。
良かったのか悪かったのか、縁がなかったんだろう。
その後、休み時間などにウィリーに話しかけてみても、元のようにシカトするか、そっけない答えしか返さなかった。
そして言ってた通り、美術部の集まりや部活に顔を出すこともなかった。
「この先になんかあったっけ? どこ行くつもりなんやろ」
確かにこのまま行くと一番外れに位置するエリアに突き当たる。
その先は小さな墓地になっていて、境はフェンスで遮られているはずだ。
ウィリーは集会所の扉の前で一旦止まり、辺りを見回した。
二人は気づかれたのかと思い、身体を強ばらせ、息を止めた。
だがそうではなかった。中の様子を窺っているようである。
ここが目的地なのか?
いや、それも違うらしい。
彼は人気がないことを確認すると、再び歩き出した。
無断で忍び込むのか、と一瞬疑ったが違った。何やら人でも捜しているようである。
今度は方向を変え、脇の小径を建物と平行する形で進んでいった。
フェンスの向こうには、根岸のコンビナートの明かりがちらついて見える。
常備灯の白と点滅ランプの赤、そして煙突から吐き出される炎のオレンジ。
巨大な工場が並ぶその一帯の闇の中で、それらの灯が存在を主張するように浮かび上がっている。
やがて、ウィリーの歩くペースは幾分ゆっくりになる。
何だか気が進まないような足取りだ。
通りすがりに、廃品置き場の雨ざらしになった家具を拳で叩くと、低い音が辺りに鈍く響いた。
すると突然立ち止まり、胸ポケットから何かを取り出した。
直後、小さく黄色い炎が一瞬だけ見えた。
次にそれに代わってもっと小さな明かりが赤く灯る。タバコを吸っているのだ。
「アイツ、今マッチをゴミ箱に捨てなかったか?」
「うそっ。まさか……」
以前、商店街裏の長屋で小火があり、ウィリーが犯人じゃないかと噂されたことがあった。
火の上がる少し前に黒人の少年を見かけたという証言があり、ウィリーが参考人として調書を取られたという話だった。
特に信憑性もないのに、何故か信じた奴が結構いたのである。
他にも、スーパーマーケットで万引きしたところを見た奴がいるとか、中華学校の奴らを半殺しにしたとか、彼に纏わる噂は数え切れないほどあった。
「そんなことはないだろう」
そうは言ったが、一応念のためドラム缶の中を調べる。
やはり違った。マッチ棒はすぐ横の水溜まりに浮かんでいた。
変な想像や勘ぐりが頭をかすめるのは、一連の行動の意味が解らないからなのだろう。
だが冷静に考えると、自分たちが何故こんなことをしているのかも解らないのだから仕方ない。
フェンスに沿ってツツジの植え込みが長く続いている。
その奥は恐らく墓地だろう、ポッカリと空いた闇が広がっていた。
以前、夏休みにこの奥で肝試しをやったことを思い出した。
気のせいか、どこからともなくお線香の匂いが漂ってきたような気がした。
普段なら怖く感じるであろう夜の墓地も、今は何の感応もなく、ただの無表情な空間に過ぎなかった。
そのとき、晃二は彼の動き方に小さな変化が生じたのを見て、荒ケンの腕を掴んで立ち止まった。
「シィッ」人差し指を口にあてる。
ウィリーは歩幅を狭めて立ち止まったり歩き出したりを繰り返していた。
立ち止まるたびに人目を憚るように周囲に視線を這わせている。
息を潜ませて状況を見つめていると、彼はクルッと向きを変え、腿の辺りまで雑草の伸びた空き地に戸惑うことなく足を踏み出した。
そのまま、二人ですら知らない獣道みたいなところをかき分けていく。
「なんだか、ヤバそうやな。どうする?」
二人は顔を見合わせ、相手の言葉を互いに待った。
ここまで尾行してきたのだ、引き返すのには躊躇いがあった。
「中途半端だな。もう少し追ってみるか」
二人は冷たい空気を大きく吸い込み、風で波のようにさざめく草むらに足を踏み出した。
辺りは月明かりだけだったが、意外と明るく感じる。
見上げると、影絵で映したような遠近感のない雲の輪郭が宙に浮かんで見えた。
「この様子じゃ、初めて来る場所じゃなさそうやな」
確かにそうだ。歩くコース、曲がる箇所、辺りを窺う所、すべて決まっているように思える。
もしかしたら、タバコを吸う場所もいつも決まっているのでは、とすら思えた。
いったい、この先に何があるのだろう。
考えを整理していたところで、荒ケンが腰を屈めて振り向いた。
「家の裏庭や。誰んちやろ?」
木立が開けた先に、青白く月明かりに照らされた、家の裏口らしきものが見えた。
木陰に隠れて様子を窺う。
明かりが漏れた窓に、ウィリーの後ろ姿が重なっている。
「アイツ、中を覗いとるぞ。出歯亀かいな」
「まさか。知り合いに会いに来ただけじゃねぇの?」
「そやけど、全然入ろうとせんで、おかしいやろが」
変と言えば変である。ジッと盗み見るでもなく、ただタバコを燻らせながら、少し離れた場所で佇んでいるのだから。
だいいち、尋ねに来たのなら表のポーチの方に廻って、ベルを鳴らすはずである。
そうやって五分ほど経っただろうか。
明かりに浮かび上がった横顔が一瞬変な表情をしたあと、タバコを枝に押しつけてもみ消し、裏口のドアに投げつけた。
そして振り向きざまに唾を吐き、足早にその場を去った。
「なんや、アイツ。何もせんと、変なヤツやな」
彼の姿が完全に見えなくなるのを待ってから、二人は忍足で窓に近づいていった。
芝生に映っている窓の明かりを避け、横に生えている木の陰から遠目に覗くと、そこはリビングルームのようだった。
テレビの光が反射しているのか壁の色が時々変化し、小さくジャズのようなピアノ演奏の音が聴こえる。
「…… 。なんかまずいんじゃない?」
晃二の目に映ったのは、男女がソファーでくつろいでいる光景だった。
男性は黒人で、Tシャツ短パン姿で足を組み、瓶ビールをラッパ飲みしている。
一方、男にもたれかかって座っている女性は日本人らしく、スカートから見える白い脹ら脛が艶かしかった。
年の頃は判らないが、女性は自分の母親くらいの年齢に思えた。
男の方が少し年下に見える。
どうやら、密会の場面に遭遇してしまったらしい。
二人は特に何をするでもなく、テレビの内容でも語っているのか時々笑っていた。
でも、二人はどんな関係なのだろう。変な憶測が頭を掠める。
「覗き屋みたいで、なんか気分悪りぃな」
ほんの一、二分ではあったが、晃二は重い塊が喉元を上がってくるような不快感に襲われた。
確かに、見つかったら警察に通報されてもおかしくないのだ。
さっきまでの刑事気取りの気分が一変して犯罪者の立場に追い込まれた気がする。
「さぁ、見つからんうちに引き上げるぞ」
後ろめたい気持ちを振り払うように、二人は走ってその場から離れた。
それにしても、何故ウィリーはこんな所まで来たのだ。
「なんやったんやろ、アイツの知り合いか? 理由わからんな」
そのとき、晃二はハッとなった。
もしかして、ウィリーの母親なんじゃあるまいか?
いや、彼の母親に違いない。
そう考えるのが自然と言うより、それ以外には考えられなかった。
だからあんなに嫌悪を剥き出しにした表情をしたのだろう。
草むらを抜けて道路に出ると、青く染まった坂の途中に街灯に照らし出された長い影が見えた。
「もしかして …… アイツのお袋じゃないのかな?」
晃二が立ち止まって言うと、荒ケンは家の明かりを振り返った。
「彼はずいぶん前から知っていて、時々様子を見に来てたのかもしれないよ。でも母親はそれを知らなくて … だから黙って引き返したんじゃないか?」
しかし、母親の屈託のない笑顔、そしてあの和やかな状況を見て彼は何を感じたのだろう。
安心か、憧れか、はたまた妬みや憎しみか?
自分の存在しない家庭を見て何を思ったのか気になって仕方なかった。
「…… かもな。フッ、母親なんかそんなもんだ」
荒ケンには母親がいないことを思いだし、晃二は口を挟むのを止めた。
両親が仲良く、家庭内に特にこれと言った問題もない自分が何を言ってもズレがあるように思えた。
「アイツもムシャクシャしとんや。分からなくもねぇがな」
荒ケンが彼のことを普段から咎めず、一個人として認めるような言動をしてきたのは、人種や家庭という問題の共通点に気づいてのことだろうか。どことなく同じ匂いがすると自分でも感じていたからではないだろうか。
返す言葉を探していたとき、鋭い音が辺りに反響した。
ウィリーがゴミ置き場の一斗缶を蹴り倒した音だった。
「晃二よ、これは二人だけの秘密にしといた方がええな」
ボソッとした声にかぶって、遠くからバイクの派手な排気音が近づいてきた。
小さくなっていくウィリーの後ろ姿を見つめて無言で頷くと、坂の向こうからバイクが現れ、ヘッドライトが彼の後ろ姿を一瞬浮かび上がらせた。