地球建築家vol.6 前川國男Ⅰ
−ホンモノ建築を追求した稀代な建築家−
今、この時代に前川國男が生きていたら、きっと静かにこう呟いただろう。
「ニセモノ建築ばかりだな。ダメだこりゃ」
われわれは日本古来の芸術を尊敬すればこそ、あえて似而非日本建築に必死の反対をなす。
街はニセモノ建築で溢れかえっている。
人々は、街を歩いていても、建物など見ていない。
作られては壊され作られては壊され。スクラップアンドビルド。
もはやそこに何があったかなど、誰も知らない。バカでかい建物が建て替わろうが気付かない。
「あれ、これって前からあったっけ?」
誰しも、一度は口にしたことがあるセリフではないだろうか。
美しくないから見ない。興味が湧かないから見ない。だから、記憶になど残るはずもない。
こんな、状況になることを、前川はどこか予測していたのではないだろうか。それを示す言葉がある。
日本の現在の状況は、あるいはこれを経済の繁栄であるとする政治家もいるであろうが、たとえ庶民はかりそめの快適さに充足感を味わっているとしても、花の涸れた国土、鳥の鳴かない田園、そして汚辱と非行にあふれた近代都市のどこに、人間の尊厳をみいだしうるであろうか。
現代の建築は99%が無味乾燥である。
しかも、問題は建築に魅力がないだけではない。前川も指摘していたように、地球環境問題とセットになって降りかかってきているのだ。
ニセモノ建築を大量に作り続けた結果、街はニセモノで溢れ、魅力などあるはずもなく、しかも地球環境まで破壊し、それがどうしようもないところまできている。
その原因の根幹は、やはり資本主義にある。
より安く、より沢山。資本主義のレールに乗ると、薄利多売の経済一辺倒となる。もちろん建築もそのレールの上に乗せられ、とうとうどうにもならない状況になりつつある。これは、前川の時代も大なり小なり同じであったようだ。
資本主義は行き着くところまで行き着いた。最近ベストセラーとなった斎藤幸平氏の「人新世の資本論」からも読み取れるように、資本主義というシステム自体を変えないと未来はない。
いま一番えらい建築家というのは、何も建てない建築家のことだ
前川のこの言葉が、現代にしっくりくる。
そう、建物はもはやいらないのだ。
しかし、こんな事を言うと、建築家の仕事がなくなってしまう。それに、いきなり資本主義というシステムを変えることは出来ない。では、どうすれば良いのか。
タクサンイラナイ。ニセモノイラナイ。
ホンモノガホシイヨ
時代がそう訴えかけている気がしてならない。
これからの時代は、人間の精神に深く訴える、ホンモノ建築を作っていくしかない。これしかないのだと思う。
私の主張せんとするところは、まことに平凡きわまりない「ホンモノ建築」の一語につきる。
前川國男は生涯に渡り「ホンモノ建築」を追求し続けた。
熊本県立美術館
ご覧頂ければお分かりのように、「既製品」が全くといっていいほど使われていない。
モノの迫力がすごい。空間の密度がものすごい。モノの匂いが漂う。心地よい音の響き。五感に訴えかける。太い。そう、太いのだ。前川の建築は骨太である。しっかりとした、誠実で品格ある骨格。
前川の人間性が、そのまま建築となり、建築空間となっている。
近代建築のよそよそしい細さ、軽さはない。前川は近代建築の細さ、軽さも否定した。
近年、これからの時代の手本となる建築がどんどん壊されている。前川國男の建築を保存すべきである。
私は可能であれば熊本県立美術館のオーナーになりたい。
夢のまた夢であろうが。