
地球建築家vol.5 ルイス・カーン Ⅲ
人間を包み込む建築
建築の元初はルーム(部屋)である
カーンの建築写真集を眺めていると、実際の空間を体験しているような錯覚に陥る。
写真の中の世界に入って行きそうになるのだ。
見れども見れども、その形、空間には全く飽きがこない。
飽きるどころか、見れば見るほど何かそこから新しい匂いや、蒸気が漂ってくるように感じるのである。
カーンは美を均衡ではなく「生成」であると言った。
均衡のとれた美人の顔は美しいが、すぐに飽きてしまう。バランスがとれているだけだからだ。しかし、決して美人ではないが、何か滲み出るものがある女性の顔は飽きがこない。見れば見るほど魅了されていく。
カーンの哲学の中心には「ルーム」の思想がある。
建築とは「ルーム(部屋)」を作ることであるとカーンは語る。
ルームは建築の元初です。それは心の場所です。自らの広がりと構造と光をもつルームのなかで、人はそのルームの性格と精神的な霊気に応答し、そして人間が企て、つくるものはみなひとつの生命になることを認識します。
それは、人間が自らの生命を確認する「部屋」であり、人間の確かな居場所となる「部屋」であり、本を読んで思索にふけるための「部屋」である。
しかし、私の解釈も入るが、カーンの言う「ルーム(部屋)」は人間のためだけの「ルーム(部屋)」ではないのではないかと思う。
ルームは建築のあらゆる部分に存在する。リビングはもちろんルームだし、ダイニングももちろんルームである。
しかし、そればかりでなく、クローゼットだって洋服達のルームだし、ガレージだって車のためのルームである。人間のためだけではなく、そこに存在するもの全てのためにカーンは愛情を込めて、慈しむように、ルームを作った。
この建物に裏なんてないんだからな
カーンが、数少ない日本人の弟子である工藤国雄さんの間違った設計に怒った時の言葉だ。
家には「裏口」と言う言葉もあるように、表と裏を分けるのが一般的だ。
しかし、カーンはその裏を許さなかった。裏だから粗末に扱っていい、力を抜いていいと言う態度を許さなかったのだろう。
冒頭の写真はカーンの代表作である有名なフィッシャー邸のリビングルームの窓である。この窓は至高の「ルーム」であり、何時間だってここに座って光の感動的な移ろいを堪能したくなる。
しかし、この家は裏方もそれに負けず劣らず美しい。
フィッシャー邸のガレージは可愛らしい「小箱」のようである。
水回りをはじめ、裏方の部屋は「裏」ではない。リビングやダイニングなどの「表」とは、また一味違った美しい光に満たされている。素晴らしい自分の居場所に佇む物達は、誇らしげな、そして気持ち良さそうな表情を見せている。
カーンは神秘的で魅力的な言葉を自らの分身として発した。
そしてその言葉により、カーンの人間性と思想が形成され、彼の魅力に惹かれた人々が集まり、彼独自の建築が生まれた。
私がカーン中毒になった学生時代から20年近くの時が経った。
今、中毒症状から抜け出し、客観的にカーンを眺めてみた。
しかし、やはりまた、その魅力に依存してしまいそうになる。
ルイス・カーンは、奥深すぎて厄介だ。