憧れの京都Ⅱ 桂離宮のモナド
桂離宮は瑞々しい生命体
鋭い刀でスパッと切ったら、作者の鮮血がしたたり落ちるのではないだろうか。そう思ってしまうほど、どの部分を切り取っても生命力がみなぎっている。
庭石のひとつ、樹木の葉っぱ一枚に至るまで、どれかひとつでも欠けたら、桂離宮は桂離宮ではなくなってしまうのではないだろうか。全てのあらゆる要素が互いに及ぼしあい、一つの生命体へと昇華している。
桂離宮を語るとき、ライプニッツの「モナドロジー」を思い出した。
ライプニッツは17世紀のドイツの哲学者である。数学者でもあり、高校数学で苦手な人が多い、微積分法を発見した。モナドロジーとは「単子論」とも訳される。
モナドとは宇宙を形づくっている究極単位のことである。この世界は無数の究極単位であるモナドの集合体でできている、というのがライプニッツの理論だ。高校で学んだ分子や原子の話と似ている。
そして、モナドは表象するという。物質のモナドは不明瞭にしか表象しないが、理性や魂のモナドは明瞭に表象するらしい。
だんだんややこしくなってきた。
難しいことはさておき、「モナドが表象する」とは、「モナドは私達の精神に働きかけ影響を及ぼす」ということであると私は勝手に解釈した。
この理論で桂離宮をとらえてみた。
モナドとは、建物の壁・柱などのあらゆる部材、庭石、樹木、土、地面の片隅に生えた苔、池を泳ぐ鯉に至るまで、桂離宮を構成する全ての要素である。
それらの要素には作者の魂のモナドが内在している。
よく、作品に作者の精神を見るというが、建築に限らず、映画や美術にも、感動する作品には、何か作者の魂のようなものが宿っているように感じてしまう。
桂離宮の作者はよくわかっていないらしい。しかし、作者の魂のモナドは現在まで生き続けているようだ。
そして、現在メンテナンスに関わる職人の魂と渾然一体となり表象し続けている。いや、その職人たちの魂のモナドがあるからこそ、表象を続けているのではないだろうか。
だからこそ私は「作者の鮮血がしたたり落ちそうだ」と感じてしまったのではないだろうか。
大変ややこしい話になってしまい申し訳ない。
しかし、自分の直感を論理的に説明しようとしてみた。
「直感とは神の啓示のようなもので説明のつかないもの」と考えてしまいがちだが、実は過去の偉人たちの叡智を紐解くと、たいがいのことは理屈がたってしまったりする。
それが真実かどうかは、さらなる検証が必要なのだが。
とにかく、桂離宮が美しいことだけは確かである。