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死者からのメッセージ     (ペルー その❷)

「記憶の断片」 

 フジモリ政権誕生前のガルシア政権では激しいインフレにより経済は壊滅的状況が続く。

 国民生活が困窮するなか、治安の悪化、貧困問題、左翼ゲリラの台頭などでペルー国内は混乱状態であった。

そうした危機的状況のなか、1990年の大統領選挙でフジモリ政権が生まれる。

 人々はそれまでの腐敗政権の苦しみから、日系人だが誠実で実行力のあるフジモリ氏に期待し選んだのである。

そしてフジモリ政権誕生から一年後のペルー。
私は死体となった少年と出会い、その目に吸い込まれ逃れられなくなる。

その当時私はテレビ朝日「サンデープロジェクト」のディレクターだった。

司会は島田紳助氏。
勢いのある番組制作のなかで新たな企画を思案していた私は、一つの新聞記事に目が止まる。

「海外協力に非情の銃弾」

1991年7月12日 JAICA(国際協力機構)から派遣されていた日本人農業支援技術者3人が、反政府テロリストグループ「センデロ ルミノソ」に襲撃され射殺されたという記事だった。

 農業支援の日本人がどうして襲撃されるのか?
 日系人初のフジモリ大統領誕生から一年。ペルーで何が起きているのか?

私はこの記事を目にした時、ペルーに行こうと心に決めていた。

 新聞記事だけでは伝わってこない現地で起きている現実を自ら取材し映像で伝えたい。

平和な日本にいて、国内の様々な情報やニュースに埋もれるなか、ニュース配信だけでは伝わらない海外の現実を自ら取材し映像で伝えたい。

 この時、海外取材経験も乏しく語学能力のない私の中で、そうした思いが静かに燃え始める。そしてこの時の想いが、その後、戦場や危険地帯へと私を誘うきっかけとなる。

この時、私は32歳。それまで経験したことのない領域に足を踏み入れる旅の始まりである。

私はすぐさま、ペルー企画書を作成し「サンデープロジェクト」に提案。
番組では新たに「海外特集コーナー」として採用される。

しかし一度も行ったこともなく、全く縁のないペルー。
ともかく必死でペルーの情報をかきあつめ、通訳や現地情報など日本大使館や商社にもと考えていたなか、一つの気になる情報に行き当たる。

それはペルーのフォルクローレのミュージシャンや楽団を日本に紹介しようと活動しているNPOの存在だった。
偶然にもその主催者の住所は私の住む京王沿線の同じ駅。
自宅から歩いて行ける距離だった。

まるでこれから進む方向を標す道標のように思い、迷うことなく連絡を入れ訪ねる。

主催者は、鄭(テイ) 文子さん。
歳は50歳前後か、整った顔立ちの中に、意思の強さを感じさせる視線が私に突き刺さる。

自己紹介後の第一声が
「私はマスコミを信用していませんから」

その言葉に開き直り私は、その当時胸に秘めていた思いや、ペルー企画に掛ける熱意などを素直に鄭さんに伝える。
そうした私の想いが伝わったのか、私に注がれていた鋭い視線は柔らかで優しい視線と変わっていった。

そして「サンデープロジェクト」の話に始まり、鄭さんの活動の話、同じ住む場所の世間話などなど気がつくと3時間も話し込んでいた。
そしてペルーに住み通訳や旅行ガイドをしている鄭さんの娘さん、大谷尚子さんを紹介してもらうことになる。
この出会いは、その後もこのペルー企画だけでなく長く続くこととなる。

その❸につづく

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