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営業妨害だ、と釘を刺される


 コーヒーの値段について、ずっと悩んでいる。
 売れないからとか、場を維持するためには、とかそのような数字の計算が理由で悩んでいるわけではない。
 もちろん売れて欲しいし、場を維持していきたいのだけど、悩んでいる理由は全く違う二つの立場(価値基準)の間に晒されているからである。

 そもそも、私がこの街で喫茶店を開け、コーヒーを売り始めたのは5年前になる。
 それ以前は、建築の設計事務所にいたり、大学で建築の教育や研究を行う立場にいたりした。
 ありていに言えば、建築士としてメシを食っていたわけである。
 だから当然、喫茶店の店長としてどうやって生計を立てていくのか、ほとんどと言っていいほど知らなかった。
 というか、コーヒーを売って生きていくんだと強く決意したわけでもない。
 じゃあなぜと問われても、正直、うまく答えられない。

 振り返って思い出すのは、建築士としてあるいは大学の教員として、建築を設計したり論文を書いたりするだけだったら、この社会の強い側(強くあろうとする側)に加担するだけじゃん、という漠然とした違和感。
 そんな説明にもならない感覚が理由である。(もう少しきちんと説明するのは別の場にします)


 だからなのか、喫茶店をはじめるにあたって勉強をしてみたものの、経営という側面における一般論についての知識はついたが、全く興味が持てず、実践する気も起きなかった。どうやったらコーヒーが売れるのか、どうやったら店が知ってもらえるのか、同業者との比較や差別化、流行りの外観や内装、こういう立地に構えるべきだ、などなど、それらは概ね自らが生き残ることを目的に組み立てられたテクニック(技術的な方法)の話だったからだ。

 いや、むしろそういう問題系から抜け出したいんだよな(無論、完全に抜け出すことなどできない)と思いながら、喫茶店を開けてみたら、やっぱり。
 経営的な模範解答への逆張りのような場所が出来てしまった。

 高齢化している地域の、シャッター商店街と言われる通りの、1杯400円のコーヒーでお客さんが1日いる、喫茶店には見えない店。
それが最初につくった私の店(と呼べるのか?)である。

 はじめは商店街に貸店舗などひとつもなく、一軒一軒ノックしてまわってようやく借りることが出来た状況だったのだが、その後に数件の新しい店舗が企画され、その改修を手伝うことにもなった。


 そうこうして店が増えてくると、同じくコーヒーを出すお店もできたわけなのだが、先日その店主に私の店の飲み物の値段について「ぶっちゃけ、営業妨害だ」と言われた。

 うちの飲み物の方が高いから売れなくなる、という趣旨だと思う。
 あ、そういえば、適正価格という考え方があるのだったと、勉強してしまい込んでいた棚からポンと出てきた。
 そっか、他のお店が困っちゃうのか。

 さて、だとすると適切な値段というのはどのようにして設定されるべきなのだろう。

 たとえば、私の店の飲み物の値段は、地域活動(困りごとを解決する有償ボランティア)をしているならと安くしてもらった家賃やら、子どもをつくらないことを想定した私の生涯必要になる収入やら、必要とする生活水準やら、さまざまな内的条件(一般的には自社コストというらしい)をバランスさせて考えたものである。

 しかし、そのような私個人の選択や費やしてきた時間は、値段という数字の単純な比較に晒された途端、無意味なものとなり誰に気にされることもない。
 もちろん、立場が逆転することもあるだろう。同様の条件である。

 売れるか売れないか、それが商売、それが競争、生き残りをかけて鎬を削る、それが商店主にとっての原理原則である。
 自由主義的な価値観がこんな寂れた商店街にまで浸透しているこの時代に、自らの生き残りをかけて競争するのは自然なことなのかもしれない。


 が、同時に疑問も残る。
他方で、商店街ではない視点から見た時、この値段の設定はどのように見えているのだろうか。

 私は商店街を含んだ街の自治会(町内会)の役員をやっているのだが、その自治会の集まりの場で、私がやっている有償ボランティアについて「金儲けするな」と言われたことがある。(以前に書いた)


 1時間800円の作業費。
 その人たちがいう「金儲け」の金額の範囲を確認したことはないが、先日引き上げられた最低時給の全国平均が961円となったことを踏まえれば、賃労働者のほぼ全てが金儲けしていることとなり、言葉の印象と現実の社会のようすとが、あまりにかけ離れている。というか、批判にすらなっていない。

 このような、ほぼ全ての賃労働者が金儲けだという立場は、地縁組織特有の価値基準から生まれているように思う。
 かつての社会主義が目指したような、デコボコのない無味乾燥の平等性。

 お隣さんが困ってるのに金取るの?そんなの当たり前、善意でやりなよ、お互い様の助け合いじゃん、という(彼らなりの)倫理観である。

 仮に、家にいることができない、孤独に耐えられない、落ち着く場所が欲しいと困っている人に対して私が400円のコーヒーでその場所を提供しているのだとすれば、彼らはきっと「高すぎる」と言うのだろう。

 商店街(競争)の側の価値基準からすれば、400円の飲み物は営業妨害となるほど安く、
 自治会(平等)の側の価値基準からすれば、400円の飲み物は金儲けしていると思われるほど高い。

まったくもって不思議なのだが、現役世代にとってお金を稼ぐことは至極当然あたりまえであるのに、引退して年金をもらい始めるとお金を稼ぐことに対して忌避するような傾向があるように思う。

この変化についてはまた別に考えるとして、ひとまず、このような摩擦が面倒なゆえに、それぞれがそれぞれの立場にこもり、互いの価値観が強化/教化され、溝は拡がっていく。

 私はどちらの価値観にもうまく馴染めずに、いまだにグダグダとコーヒーの値段について考えているのだが、もう少し溝の上で綱渡りを続けようと思う。


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