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澁澤龍彦の晩年 (10/1の日記)

 金曜日。台風が来ているらしく、外は激しい雨、風。
 退院後初日。トイレに立つのから始まり、あらゆることを家族に介助してもらう必要があることを知る。チョビが善意のつもりで(?)じゃまをしに来るので、困った。

 ギリシアの重い本は敬遠して、今日は軽く読めるエッセイの類を。

 澁澤龍彦『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』(小学館)。初版は立風書房から1990年に出た、澁澤の晩年の雑文をまとめた一冊。
 手術を受けた澁澤の見る「幻覚」は、まあ、凡庸といえば凡庸なもので、文章としても大して凄みのあるものでもない。「凄み」を求めるのであれば、小説としての絶筆『高丘親王航海記』の方が、当然のことながら、ふさわしい傑作だったと記憶している。
 ほかのエッセイも、激しい知的興奮をもたらしたり、鬼面人を驚かすていの指摘に溢れているというわけでもなく、むしろ肩の力の抜けた文体の気楽さが印象的。そのスタイルを貫いている点に、澁澤のダンディズムを見るべきだろう。
 もともと彼は「肉体をひとつのオブジェと見る」透徹した眼の持ち主だが、声を失い、自らの肉体の衰えを経て、いっそうそれに磨きがかかっている。
 「夢のコレクション」というエッセイでは、「コレクターとレトリシアンとは、たぶん両立しないのである」と書き、澁澤自身はコレクションに熱中するにはあまりにもレトリシアンでありすぎるとしているのが、おもしろかった。

 私自身、昨日まで都心の病院にいたのだが、うとうととしながらも幻覚らしい幻覚は見なかった。
 ただ一度、早朝にカーテンを開けて部屋に入ってきた男の看護士さんが、マスクをつけていたせいもあって、キムタクに見えたことがあった。もともと男前の顔立ちで、年齢も近いはずなのだ。それを本人に告げたら、「うそ。そんなこと言っても、なんにも出ないよぉ」とおかまのような返事が返ってきた。

 鈴木翁二『オートバイ少女』(筑摩書房)。
 星空や海に託される、著者独特のナイーヴな幻想の魅力はわからないでもなかったが、この人の描く人物の、大きなまんまるの「目」に、どうしても馴染めないものを感じてしまう。

 花田清輝『いろはにほへと』(未来社)。
 二村次郎のユーモラスな写真と相まって、なんとも洒脱な印象の一冊。花田の本としては、格段に読みやすいぶん、内容もうすいように見える。ただ、「律儀者の子沢山」と題された次の一文は、寓意の広がりのようなものを感じさせてくれて、以前から私の好きな文章である。
 ちょっと長くなるが、多くの知人に花田の魅力を紹介したいので、あえて引用してみる。

 以前、わたしは、子供を一人うむエネルギーがあるなら、そのエネルギーで、大衆の魂をゆさぶるような本を一冊かかなければならないと思ってました。しかし、そのうち、やがてかかれるであろうわたしのその本の読者が、たいてい、子供をもってることにおもいいたり、こちらも子供をもってないと、とうてい、かれらの魂をゆさぶるような本をかくことはできないのではなかろうかと心配になりました。なんとなくわたしは、わたし自身が、大衆の生活から遊離してるような気がしてならなかったのです。
 そこで、わたしは、いささか方針をかえて、本をかく前に−というよりも、本をかく準備として、子供を一人こさえてみることにしました。そして、わたしは、どうやらわたしの以前の方針のほうが、正しかったらしいとおもわないわけにはいきませんでした。なるほど、わたしは、いくらか大衆の魂のからくりを了解したような気分になりましたが−しかし、そのときには、もう本をかくエネルギーのほうは、すっからかんになってたからです。それでもわたしは、無理をして、なん冊か本をかきましたが、それは、たぶん、わたしが、一人だけで、子供をこさえるのをやめたからでしょう。したがってまた、それらの本は、いまにいたるまで、いっこう、大衆の魂をゆさぶったらしい形跡はありません。
 だが、ひるがえって考えてみますと、子供を、どっさり、こさえれば、かれらを育てるために、本を、どっさり、かいたかもしれないのです。そして、その本のなかに、もしかすると、一冊ぐらい、大衆の魂をゆさぶるような本がまじってたかもしれません。しかし、いまさら律儀者になろうとおもっても、時すでにおそしです。

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