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9/8の日記
昨晩も眠れなかったので、昼過ぎに起きる。
薬を飲んでもう一度寝る。
訪問の看護師さんが来る。もう、何度も来ているのに、うちの猫はいまだに看護婦さんに向かって「シャー!」と声を上げながら近づいていく。
フローベール『紋切型辞典』(山田ジャク訳、青銅社)を読む。山田ジャクの漢字変換が出ない。
それにしても、これは、退屈であるべくして退屈な本である。
ギャグとアイロニーに満ちた、ビアスや筒井康隆の辞典とは、そもそも志向が違う。
と、書いていて、よくよく考えてみると、『悪魔の辞典』や『乱調文学辞典』『現代語裏辞典』を読んで笑ったことが一度もないことを思い出した。
今回、この『紋切型辞典』をちゃんと読んでみると、どうも彼らの本とそっくりである。
不道徳 この言葉を重々しく発音すると人格者と見なされる。
葡萄の葉 彫刻芸術において、男性機能の象徴。
船酔い 酔う、酔うと思うから酔うので、なんでもいいからほかのことを考えさえすれば酔わない。
ところで、前の『人間臨終図巻』の書評に書いた「リアリズム」と、いわゆるフローベールの「リアリズム」=「写実主義」とはぜんぜん違うものだと私は思っている。
フローベール自身は、「全人類を罵倒してやりたくてたまらない」という悪意から『ボヴァリー夫人』『ブヴァールとペキュシェ』『紋切型辞典』その他の作品を書いた。
しかし、たとえばそこに「端から端までぼくが勝手に創作した言葉は一語といえどもあってはならない」。
フローベールの作品の「リアリズム」たる所以は、それが文字通りの「写実」であるところにある。
『ボヴァリー夫人』を「下敷き」にした小説に、金井美恵子『文章教室』がある。
その福武文庫版の巻末に、金井と蓮實重彦の対談が載っているのだが、私はむかしこれを読んで、強烈な印象を受けた。
『文章教室』は、文章教室に通う主婦や、文学部の女子大学生、「現役作家」や「批評家」の登場する小説で、作中に、現実の「現役作家」たちの文章がカギ括弧つきで、そのまま引用される。それがあまりにも滑稽なので、「文学」を書く人間たちの、本人たちが気づいていていない「凡庸さ」を痛烈に暴いた小説として読める。
ところが、対談で金井美恵子は、
たとえば風俗小説だとか、家庭小説と言われたのはともかく、いちばんぴんとこなかったのは、風刺小説という言葉でしたね。
作者の意図としては皮肉ということではなく、むしろ事実を書いた、と思ってます。「文章教室」はリアリズムの小説なのです。リアリズムですから、風刺や皮肉であるより、まず事実を問題としているわけです。さまざまな書き手たちによって書かれた小説やエッセイやその他の文章、誰でもが眼にしている文章という事実を坦々と書いた小説だと思うのです。パロディや引用でさえないのです。その坦々と書いた事実が、風刺とか皮肉とか受け止められてしまう。
と、述べている。作者に対するインタビュアーをつとめた蓮實重彦も、
作者の深い愛情が登場人物の一人ひとりに、太陽の光りのように染み通っている作品として、久方ぶりに感動させていただきました。ありがとうございました。
と言って、インタビューを締めくくっている。
これらの発言もまた、もってまわった皮肉なのか。初めてこの小説を読んだとき、当惑したのを覚えている。
しかし、彼らの言葉は文字通りに受け取るべきであると思う。
フローベールもまた、人々の凡庸さに耐えきれず、彼らを「罵倒」するつもりで書き始めたかもしれないが、書くことは単なる罵倒に終わるものではない。それは書かれる中で、「太陽の光り」のような「愛情」として結実したのではないか。
おやつにドーナツ。夕飯にかぼちゃのシチューを食べる。
もう一冊、『ブレイク詩集』(土居光知訳、平凡社ライブラリー)を読む。「無垢の歌」「経験の歌」「天国と地獄の結婚」が入っている。
むかし大江健三郎を熱心に読んでいたときに、ブレイクとその研究書を借りてきて読んでみたことがある。正直、よくわからなかった。
今考えると、それも当然である。ブレイクを読むには、キリスト教の知識が必要なのだ。
その後『神曲』を知り、聖書も読むようになったが、もちろん、まだわからないことだらけである。
今回は、『成城だより』にブレイクへの言及が出てきたので再読している。大岡昇平は富永太郎の全集を作る過程で、彼が愛読していたブレイクを調べている。
私がブレイクを読んでピンとこないのは、その「無垢」に対する憧憬である。
純真無垢な子供たちが、天真爛漫に遊びまわっている。
そういうイメージが、どうも茫洋として、つかみがたい。
私自身の幼少期の記憶といえば、車やウルトラ怪獣、ポケモンの名前の記憶ばかりで、もっぱら「知的」なものだけだ。外で遊んだ記憶ももちろんないわけではないが、印象的なのは遊ぶことに対する遠慮や劣等感ばかり。
そもそも「無垢」なるものは記憶に残らないからこそ、憧憬の対象となるのかもしれないが、どうも実感として理解するにはあまりにも手がかりがない。
大江健三郎と同じく、大岡昇平もまた「無垢」に惹かれているのだが、その理由は、分析的な自伝『幼年』『少年』を読んでもいまひとつよくわからない。
キリスト教への関心は、自分が罪にまみれているという「罪悪感」から発するものとしては、理解できる。
私自身も、医者から「死」を覚悟するように言われてから『神曲』を読み、「罪深い人生を送ってきた自分も地獄に落ちるだろう」と反省し、贖罪のために山を登る「煉獄篇」を読んで涙を流した。
それ以前から、映画監督イーストウッドの作品に熱中していたが、彼には『許されざる者』という代表作があり、罪を背負って生きていくことがモチーフになっていると言って良い。
今回読んで面白かったのは、むしろ論争的な『天国と地獄の結婚』だった。これはミルトンやロック、スウェーデンブルクに関する神学的な知識がないと読めないものかもしれないが、よく知られる「美は過剰にあり」の句を含むものである(土居訳では「充ちあふれることが美である」)。
ここでは、刹那的なものが賛美され、労働は忌避される。労働を否定する思想は、私のような病人にとって耳障りが良い。
労働否定論として、先ほど言及した金井美恵子の名著『夜になっても遊びつづけろ』を読み返してみようかと思っている。
ところでイーストウッドは、映画の中で、よくイエーツを読んでいる。
かなり前に『鷹の井戸』などを読んだだけだが、それ以来、気にかかっている。イエーツも、体力のあるうちに読まなくてはいけない作家のひとりである。