残り時間は思ったほどないという話

今年45歳をむかえ、
時の流れが年々早くなっていくのを感じる今日この頃。
人生の折り返し地点をターンしながらも、まだまだやりたいこと、やるべきことに満ち溢れる自分。
むしろ、やっと、ようやくここからはじまる。くらいの勢いとモチベーションに溢れた45歳です。
てなことで最近本当に自分の意志にストイックさが増した気がします。
とにかくやりたいことに素直に、自分に嘘をつかない。
やりたくないことを排除していく。といった感じで無駄を省き、やりたいことや好きな人たちで心と時間を満たすように努めています。
こうしたマインド変化の背景には、今日お話する「時間の流れ」が割と強く関係するんですが、結論を話すと
「思っているほど残り時間がないのかも・・」ということなんです。

やりたいことはとにかく先回しに。

イギリスの大学に通っていたころ、とある授業で教授がこんなことを話していたのを覚えている。
あなたは美味しいものを先に食べる派ですか?
後に残して最後に食べる派ですか?
と、ある生徒が指されて答えた「私はいつも後に残して食べます」と。
すると教授は黒板に絵を描いていく。

細長い瓶の中に、
まずピンポン玉を入れる、次に
小さな砂利を入れ、
細かい砂を入れて、瓶が埋まった所でこう言った。

瓶は、人間の人生で、瓶の大きさは人それぞれ異なる。
ピンポン玉がみんなの人生で優先すべきこと。
そして砂利や砂は優先度の低い些細なこと。
これから先、社会に出る時、入れる順序を常に考えなさい、と。
砂や砂利のようなどうでもいいことを先にいれると瓶はぱんぱんにうまり、本当に優先すべきことはできなくなってしまう。
でも先にピンポン玉を入れると玉と玉の隙間に砂も砂利も入れられる。
だから常に、ピンポン玉(優先すべきこと)が先なんだ。と。
美味しいものを後でとっておくのはOKだけど、人生においてそれはNGだと。

要は人生において優先すべき事をやらないと、気がつくと優先度の低い事で器はいっぱいになって終わり。みたいな話。
後で知ったけどこの話は有名でいろんな所で話されているようです。

当時は、なるほどな〜と頷きながら聞いていたんだけど、その時はこの優先すべき事項がなんなのか、実はあまりわかってなかった。
優先度の高い事項=夢?仕事?勉強?
優先度の低い事項=遊び?みたいになんとなく思っていた。
だって、お金がないとやりたいことできないじゃん。
お金を稼ぐということは仕事しなきゃじゃん。だから優先は仕事でしょ!
という風にと捉えていた。
でもスティーブ・ジョブスの伝記を読んだ時、彼が死に際言っていたことは真逆だった。
優先すべき事項は家族、親友との時間、旅行や愛や芸術。
優先度の低い事項は仕事だったのかもしれない。と。
彼の仕事で、生み出したモノやサービスでどれだけの人の暮らしに貢献したことか。そんな世の中への貢献度が高い彼でさえ、優先は仕事ではないというのだ。

結局、死ぬ時に富は持っていけないけど、友人や家族との楽しい記憶や愛は身体に染み込んで一緒に持っていける。
人間の幕を閉じる寸前、意識がなくなるかなくならないかの瞬間に、頭をよぎるのは、そういうことなんでしょうね。

話は戻って、その教授が、「ピンポン玉」の話をしてくれた時に、続けてその理由(=なぜ先にやるべきなのか?)もセットで話してくれたのだけど、そっちの方が当時の自分には衝撃で、明確に記憶に焼き付いている。
それは。。
今の自分と未来の自分を同じコンディションで考えてはいけないということ。
未来の自分は、今よりも身体機能、活動エネルギー、体力は衰える。
加えて家族や富、社会的地位や責任、生活ルーティンなど社会規範の中にどっぷりと浸かり、ある種の快適空間(コンフォートゾーン)に生きることで、自然と脳に制約ができる。
その当時は、あたりまえのように若いままの体力が未来永劫続き、いつだって意志さえあれば自由に動くこともできると思っていたけど、リアルはそうじゃない。
やりたいことを後に残すと、その時にはできる状態ではなくなっているかもしれない。
でも、その時教授が言っていたのは、
人間が、目をつぶって未来を想像する時、その風景は未来的な情景だろう。でもその情景の中にいる自分は、なぜか今現在の風貌なのだ。と。
つまり、多くの人が、未来を想像する際に、現役の自分がそこに生きている絵を描くという現象が起こるのである。
その要因は、多くの人が一人称で自分の眼下に広がる未来像を想像し、多くの人が客観的視点から、老いた自分が動いている絵を想像できない(したくない)からだという。
だから、未来も相変わらず、今現在のコンディションで活躍できると思い込んでしまうということ。

そうした事実をを思い知らされた上で、
「ピンポン玉が先!」という教訓を心に刻み、学校を卒業し、晴れて僕のサラリーマン人生ははじまりました。(サラリーマンかい! 笑)

時間の流れるスピードも変わっていく

上で述べたように、若い頃に比べて、体力や筋力は減ったな〜と感じるがそれと同様に感じるのが、時間の体感スピードだ。
時間は何人(なんぴと)にも平等であるものと思ってきたけど、どうもそうではないらしい。

みなさんはジャネの法則をご存知でしょうか。
19世紀 フランスで、ポール・ジャネという哲学者が提唱した、時間の体感スピードに関する法則です。
この法則は「人生のある時期に感じる時間の長さは年齢の逆数に比例する」
というものです。
歳を取るにつれて自分の人生における「1年」の比率が小さくなるため、体感として1年が短く、時間が早く過ぎると感じるということです。
時間が流れる速さについて、年少者はゆっくりと感じ、年長者は速く感じられるという現象を、心理学的に説明したのです。
時間経過の体感スピードは、年齢と反比例する」って感じですかね。

たとえば、1歳児の感じる1年を1/1(365日分の体感速度)とすると、
2歳児の1年は1/2(138日分の体感速度)となり、1歳児の2倍速く感じるというのです。
で、10歳の1年は、1/10(37日分=約1ヶ月の速度)。
で、50歳の1年は、1/50(7日分=約1週間の速度)。
なのです。
と言われても、誰しもが1歳の時の記憶はないからピンとこないかもしれない。しかし10歳(小学4年生)の記憶は明確にある。
自分が10歳を生きていたあの当時からすると、僕は今その時の約5倍(厳密には45歳だから4.5倍)のスピードで1年を過ごしていることになる。

「なんか、うわぁ〜」って感じ。

この現象は、人生経験の豊かさが影響しているようで、小児は毎日が新しいことの連続であり、その新規体験があるほど脳は刺激を受け、思考も増え、それらが時間の体感スピードを遅めるのだそう。
逆に、50歳になると、生きること自体に慣れて、幼少期ほど新規体験はない。
ただなんとなくぼーっとしてたら1日過ごしてしまったなんてことあると思うが、このぼーっとしてる状態が、新規体験のない状態なんだという。
つまり、50歳の大人が生きる世界の体感スピードはめちゃくちゃ早くなっているということ。

残された時間はどれくらいの長さに感じるのか?

時間があっという間に過ぎ去っていくという法則は自分でも体感しているけれど、
となると、僕に残された時間は、体感としてどれくらいなのだろう。
御年45歳。
85歳まで生きるとして、物理的には後40年。
でも10歳の体感スピードで計算すると体感的にはたった8年。
「え?これしかないの?」ですよね。
10歳の時の感覚でいくと、8年で人生終わるのか〜と・・・思った以上に残り時間は短いな〜と。

そう考えると、やっぱり先にピンポン玉なんだな〜って思ってしまう。
さぁこれから瓶にピンポン玉入れるぞ〜と思っていれても、20個入ると思っていたら実際入れてみると5個くらいしか入らなかったみたいなことが起こりうるのである。

と、なんか暗い話になっちゃったんですけど、
この体感スピードは、人生への慣れが引き起こす現象であり、逆にいえば、歳をとっても新規体験と脳への刺激を増やし続ければその体感速度を遅めることもまた可能というのがジャネの論理なんです。

実際、そのことは僕も体感していて、僕は3回転職していて
最後の会社は常に新しいチャレンジの仕事が多く、毎日とは言わずとも新しい事を常に取り組んでやっていた。
結果6年半くらい在籍してたけど、体感的には10年くらい在籍した感覚があった。色々やったけど、振り返ればまだ6年ちょっとか〜と思った。
そして海外に移住して暮らす今も、文化・言語・生活習慣の違いにほぼ毎日遭遇し、良くも悪くも刺激を受けている。そのことが時間を遅めている気がする。

言いたかったこと

冒頭の話に戻りつつ、話をクローズしていくのだが、
やはり人生において、優先すべきことは先にやるべきだという教訓は改めて正しいと思う。
それは、年々歳をとって、残りの人生が体感スピード的に8年だと思えば、正しいと言わざるを得ない。
自由に生きることを選択し、良くも悪くも新しい刺激を受け入れて生きる自分の人生の体感スピードはちょっと緩やかになった。
そして、これから色々なことが急激に大変革していく時代において、否が応でも
人間は新たな体験をせざるをえなくなる。
そして、自分の価値観を信じて生きていく人々には、大なり小なりの刺激が必ずある。
そうした刺激を感じる世界で、人々が体感する時間のスピードは多少緩やかになる=体感プレー時間は増える!と思う。
相変わらず人生の残りの体感プレー時間は思ったほど多くはないけれど、
ちょっと増えた分、そこに一つでも多くのピンポン玉を入れていこうと思う。

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