ゼロ年代批評批判を超えて①-エヴァ史観とホモソーシャルのディストピア
例にもよって適当に書き始める。①とか書いてるが、続くのかは知らない。以下本文。
ゼロ年代批評と呼ばれるよくわからない何かに対してのまたよくわからないよくある批判として、エヴァ中心史観、つまりエヴァについて語るあまりに他のものを語り落としているというものがある。
私もゼロ年代批評が好きなものの一人ではあるが、こういった批判はある一定の妥当性はあると思う。私自身とエヴァの出会いは、大学時代になってからで、寮の友達の部屋で一緒に鑑賞したのが始まりだった。その時も、衝撃は受けたもののそこまでハマるということもなかった。だが、その後いわゆるゼロ年代批評界隈というのに出入りするようになり、そこらへんの人はやたらと「エヴァ最高」とか言うわけだ。なるほど、そういうものか、とやや夏目漱石的主人公の心境で当時から違和感を感じてなんとなく過ごしてきた。
だから、繰り返しになるが、それが事実かどうかは別として、確かにエヴァ史観批判には、妥当性はあると言う実感が私にはある。なんでこんなにこの人たちはエヴァのことが好きなんだろう?と。
そうした人たちは、全員がそうではないにしろ、宇野常寛がよくいう東浩紀の劣化コピー、もしくは信者だったのかもしれないと、今になって思うことがある。そう言う意味では、私が東浩紀の同人誌である『はじめてのあずまん』を作った時の動機もまたいわゆる紋切り型のパターン化された東浩紀受容に違和感があったからだということと、このエヴァ史観に対する違和感は根本は同じだったのかもしれない。つまり、なんでみんなもっと他の可能性について考えたりしないのだろう。毎回同じような会話で、同じような作品群しか語らない。そういうことがたぶん世間一般から見たときのゼロ年代批評に対してのイメージになっている気がする。それは、すごく残念なことだ。今やゼロ年代批評の世間の評価は、東浩紀というよりむしろ宇野常寛的な磁場の中にあり、アニメとかを社会学や現代思想の用語を使って、上手いこというゲームになっている。こういうと、宇野常寛に対しての批判に聞こえるかもしれないが、無論宇野さんがそんなことをしていたというわけではない。劣化宇野常寛のような言説が多くなっていると感じる。こうしたゼロ年代批評の悪いイメージは、ゼロ年代批評を嫌う人たちと対話する中で、より強固になってきているように思える。
つまり、ゼロ年代批評批判もまたパターン化されている。そして、それに対しての応答も。こういう、つまらない応酬、つまりホモソーシャルなやりとりは本当にくだらないから即刻やめるべきだというのには深く同意する。
だが、一方でこうやって私がこんなことを書くことも、そういう不毛なループに陥ることも自覚している。このゼロ年代批評の呪縛から逃れることは、結局のところ難しい。それほどまでに批評のゲームはゲームとしてよくできている。だから、私が大学生だった頃から10年以上経った今でも、大学生の一部にとっては非常に魅力的にうつるのだと思う。
繰り返すが、私はゼロ年代批評が語るエヴァには長い間触れてこなかった。あまりハマらなかった。だが、一方で別のアニメやライトノベルといったものに対してはハマった。そういう意味ではこの文章もまた、宇野常寛がゼロ年代批評でやった東浩紀史観へと抵抗への焼き直しにも見えるのかもしれない。そこは否定はできない。
とはいえだ。私は、やはり好きなものが可能性があるにも関わらず、誤解されたままでいることが嫌なのだ。だから、この文章もまたそういう動機で書いている。ゼロ年代批評が嫌いな人も、本当の面白さを知って欲しい、ゼロ年代批評を語る人もセカイ系がどうとか、そういうのじゃない作品もあったことを思い出して欲しい。結局批評というゲームは、世間からすればホモソーシャルなものでしかない。そこの論争は、社会人としての自分、世間一般からみれば、クソどうでも良い違いでしかない。だから、争うんじゃなくて、お互いの好きなものの良さを理解し合うことが大事なのだと私は思う。誰かを好きになるためには誰かの好きなことを好きになることだ。そして、自分の好きなことを好きになってもらうことだ。
だから、私が言いたいことは、批評には愛がなければいけない。小手先の上手いこと言ったゲームや言葉の自動機械になってはいけない。本当に自分が好きなものを好きだと伝えること。つまり、批評は全てラブレターなのだ。東浩紀のデビュー作の『存在論的、郵便的』もまた、そうであったように。
前書きが長くなった。次回は、エヴァ史観に対してのアンサーとして、忘れ去られた名作ヴァンドレッドについて語ってみたい。私は、中学時代これによって狂ったようにハマった。その魅力について語りたいと思う。
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