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声優とはオノマトペである-アニメ記号接地問題について考える
なぜ、私たちは、絵=記号にしか過ぎないアニメのキャラクターを愛することができるのか。
ここで、いきなり「私たち」というのは、少し性急過ぎたかもしれない。
何故ならば虚構内の存在であるキャラクターのことを愛してしまう人とそうではない人がいるからだ。わたしは、そのように虚構の存在ですらも愛してしまう「わたしたち」のことを、「オタク」と呼称しよう。
ここでは、オタクとそうではない人の差異を問題としない。だが、おそらくはその違いが果たしてどこからやってくるのか?というものについて考える端緒にはなるだろうと思う。
繰り返す。
なぜ、私たちは、絵=記号にしか過ぎないアニメのキャラクターを愛することができるのか。
わたしはその問いを、アニメ記号接地問題と仮に呼ぶことにする。記号接地問題とは下記のようなことである。
記号接地問題は、もともとは人工知能(AI)の問題として考えられたものであった。「○○」を「甘酸っぱい」「おいしい」という別の記号(ことば)と結びつけたら、AIは○○を「知った」と言えるのだろうか? この問題を最初に提唱した認知科学者スティーブン・ハルナッドは、この状態を「記号から記号へのメリーゴーランド」と言った。記号を別の記号で表現するだけでは、いつまで経ってもことばの対象についての理解は得られない。ことばの意味を本当に理解するためには、まるごとの対象について身体的な経験を持たなければならない。
私たちオタクにとって、記号に過ぎないキャラクターといった存在は、AIにとっての言葉と同じである。オタクはキャラクターを「愛する」というとき、そのキャラクターについての身体的な経験を持たない状態で、記号のままで愛することができるのだろうか?
この問いは、キャラクターだけに留まらない普遍的な愛についても敷衍できる。何故ならば、それは哲学の用語で言えば、固有名と確定記述の問題だとも言えるからである。どういうことか。
多くの場合、誰かに愛を伝えるときは、確定記述(容姿や性格、あるいは属性)のことを挙げることが多いだろう。だが、「綺麗だ」とか「優しい」という確定記述を持つ人は世の中に数えきれない人がいるのに、なぜ「あなた」でしかなくてはならないのかを考える時、ハルナッドの言葉を借りるならば、「確定記述から確定記述のメリーゴーランド」が始まってしまう。他ではないあなたのことを愛すると言う時、つまりは固有名の愛を語る時には、確定記述のメリーゴーランドから飛び降りなければいけないのである。
話を戻そう。
オタクはアニメのキャラクター=記号と接地している。だから、虚構の記号であるキャラクターを愛することができる。そう仮定すると、ではどうやってオタクはアニメと接地するのだろう?
三次元と二次元。つまりアナログとデジタルの間を接地させるものとは何か。
ここで、私は一つのテーゼを提出する。
声優とはオノマトペである。これがアニメ記号接地の問題を考える上で、一つの端緒となると私は考えている。
思いつきで書き始めたので終わるのかは、わからないが、とりあえず続く。