東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』読解-郵便、電話、不気味なもの
こんなツイートが流れてきたので、前に書いていた『クォンタム・ファミリーズ』論を書き直してみた。
これは、先日書き直した、「萌えは愛の上位概念とは何か?」と関連しているので、面白ければそちらも読んで欲しい。
アクロバティックな「私小説」
『クォンタム・ファミリーズ』は、東浩紀によるSF小説である。小説としては、その前にも桜坂洋との合作の『キャラクターズ』があるが、その初の単著で彼は三島由紀夫賞を受賞した。
その受賞時のコメントでは彼はこの小説のことを「現代的なネット(ゲーム的世界観)と想像力(マルチエンディングとデータベースの想像力を前提」としたアクロバティックな「私小説」」と述べた。(東浩紀「現実はなぜ一つなのだろう」『ゆるく考える』所収) 文芸批評家でもあり、美少女ゲームの分析を行っている彼の論評以上に的確な表現はない。
あらすじなどの内容は、Wikipediaが非常によく纏まっているので、詳しく知りたい人はそちらを読んで頂きたい。また、熱心な読者によって作られた下記のような物語の構造図もあるので、参考にされたい。
バッドエンドの複数の東浩紀たち
東が前述の受賞時のコメントで述べるように、この小説を書くにあたって、娘の誕生というのが非常に大きかったようである。だが,東は自身が娘を愛し,平穏な家庭を築いているというこの現実が信じられていないという。むしろこの小説は,その現実をこそ虚構化させるために書いたとまで語る。客観的に見て破滅主義に類するようなことを言っている東だが,この幸せな自分とはまた別の可能性があった自分がいるという想像力を抱いている。そういった可能世界の人生こそが本当の人生だったのではないかと彼は感じている。
この小説は,イマココの東浩紀からバッドエンドの東浩紀たちに向けられた手紙として読むことができる。
郵便と電話
この小説は、バッドエンドの東浩紀たち=葦船往人の物語である。この物語を2つの重要なワードから読み解いていこう。それは郵便と電話である。
物語は,娘が生まれなかった世界線の往人に対して,別の可能世界の未来の娘から手紙(電子メール)が届き,半信半疑ながらも往人は返信することで物語が始まる。
手紙あるいは郵便は最初の主著である『存在論的,郵便的』からずっと使われている東浩紀の重要な概念である。もちろん,本作でも至るところでその隠喩は多く活用されている。(例えば,風子から汐子への手紙など)
これは,東浩紀読者にとってはもはや常識といってもいいだろう。
一方で,もう一つの重要な隠喩は電話である。往人がアリゾナで可能世界に転移するときにも電話が用いられている。下記のような流れ
娘(風子)からのメールを受信した往人は約束の場所(アリゾナ)で,電話を受け取る。
娘(風子)は,電話を切るようにつたえる。
突風が吹く。(世界の移動)
少年(理樹)が新しい世界に移動したことを告げる。
「それならばさっきの声はだれだ」と往人は叫ぶ
他にも重要なところで電話が出てくることに気づくだろう。例えば、政治活動家だった別の葦船が計画したテロによって巻き込まれた妻友梨花の死を眺めるシーンである。
そのように隠喩からこの物語の構造を読み解くと、一貫してこの物語の中では、郵便は受動的なモチーフ(投函→待つ)であり,電話を取ることは能動的なモチーフとして捉えられることができる。(逆に電話をとらなければバッドエンドに陥る) 特に電話は,可能世界に移動するために重要なデバイスとして位置づけられる。
さらに,物語の後半で,年をとった老友梨花が大事にしているのは,年代物の携帯電話だ。彼女はそこで,奇妙なノスタルジーを感じながら愛について考える。
この老友梨花は,まさしく宇野常寛が主張している「母性のディストピア」の象徴のような存在である。
彼女は自分にとって「安全で痛い」物語(家族)を収集(再縫合)する存在だ。彼女は,検索性同一障害というこの物語の中での架空の病気を発症している。これは非常に面白い設定で,先程の東浩紀の受賞コメントとも関係する。小説内の説明を見てみよう。
彼女はこの病気により可能世界のその数百の自分の記憶の中を生きている。その中から,彼女にとって都合の良い家族を集めることを企図していた。
不気味なもの-汐子の声
だが,この物語はここで終わらない。実はこの複数の可能世界にいるバラバラの家族が収束する物語をつくっていたのは,往人の娘の風子がつくったプログラムの存在であった未来の「汐子」だったことが明かされる。
作中何度も語りかけられる不気味な呪文のような汐子の声。これはこの物語の中でも異質なものとして描かれる。
この不気味なものの声の主である汐子は,受賞時のコメントからも類推されるように実の娘の汐音がモチーフであることは間違いない。
東浩紀において、不気味なものとは、『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』でフロイト由来のものとして導入され、最近の『観光客の哲学』で、再導入された概念である。
ここで重要なのは,この物語の最後の汐子の声の意味である。つまり,ここでいう「みんな」とはつまり,著者である東浩紀=葦船往人や私達読者に対しての呼びかけであり,この小説から物語外へと連れて行ってあげるという意味である。
これは深読みでもなんでもなく東浩紀自身の読解にもとづいている。『ゲーム的リアリズムの誕生』の中にかかれている『Ever17』のオマージュであることは明白である。
『クォンタム・ファミリーズ』とは、東自身がコメントしていた通り、まさしく、可能世界の母性のディストピアから、娘がいて幸せな家庭をもっている<この現実の東浩紀>というトゥルーエンドへと至る物語だった。
それは物語の構造から何から何まで仕組まれていたのである。
そして、手紙や電話,そして不気味なもの=子どもの声という暗号を読解することでしか辿り着けないゴールだった。
もうゴールしてもいいよね。
なお補足しておくと、主人公の苗字の葦船とは、日本神話では、イザナギとイザナミが初めての子作りで、最初に生まれた神ヒルコを乗せて流してしまった船のことを指す。ヒルコとは、水ヒルコとも呼ばれ、水子(流産や中絶、死産などを理由として、生まれる前に命が消えてしまった子どものこと)の原型とされ、葦船神社は、そうした水子の霊を供養する神社として知られている。この物語における水子とはつまり、バッドエンドでこの世界に辿り着けなかった東浩紀たちのことを指すと思われる。もちろん名前の往人は、AIRから来ているのはいうまでもない。