僕の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の楽しみ方と一抹の不安。
みなさんこんにちは、今、エヴァだと伊吹マヤが一番熱い筆者です。
2021年1月23日に公開が予定されている『シン・エヴァンゲリオン劇場版』ですが、、、コロナでまたしても公開延期の可能性があるとしても、期待より「ああ、ついに終わってしまうのか」というセンチメンタルな気分というのが正直なところです。
エヴァという作品は様々な楽しみ方が用意されており、どれが正しいということはありませんし、非常に不安定な作品です。
どう評論・考察をしても正解がないのがエヴァの尋常ではないところなのですが、今回は僕なりの予想と楽しみ方を、自分の気持ちの整理もかねて書いていこうと思います。
かなり偏った意見も含みますが、凝り固まったオタク・イデオロギーの面もあるので笑って流して頂ければ幸いです。
エヴァ=『庵野精神主義』のすすめ
正直いうと、ネルフがどうだとかゼーレがどうだとか、いわゆる考察対象となる作品の細かいギミックは全て枝葉の議論だと思っています。
僕は、つまるところエヴァンゲリオンとは監督の庵野秀明氏の自己表現の手段であり、作中設定のほとんどは作品を肉付けするためのものに過ぎないという、非常に作家主義的な立場です。(設定を無視するという訳ではないが、今回は言及しない)
そして、90年代から興隆したエヴァが「若者の心理」を反射し、彼らの精神性を表象しているというセカイ系論、オタクのポストモダン化論、母性のディストピア論はおおむね認めない立場でもあります。
何故なら、それらの多くからは評論のために作品を無理やり応用しようとする驕りを感じるからです。
ウケた理由を探すために、エヴァという作品はバラバラにされ続けてきました。
そもそも、エヴァとは庵野秀明というオタクの咆哮であり、断末魔なのに(という個人的な立場)、そんな純粋なオタクを釣り上げて「これが社会だ!」というのは無理がある。
秋葉原を歩くオタクを捕まえて面白インタビューを放送する程度ならまだいいけれど、そんなオタクの面白インタビューを切り刻んで「社会」として考えること自体、僕は許せないのです。
しかし、望むにしろ望まないにしろエヴァンゲリオンという作品はその十字架を背負ってしまいました。
そして大胆に断言してしまうとすれば、その十字架を清算しようとしているのが「新劇場版」シリーズであり、言い換えれば、庵野秀明氏のクリエイターとしての決意と葛藤、その精神史そのものが「新劇場版」シリーズなのです。
うん、今回はこう言い切ってしまった方がわかりやすい。
この立野を庵野精神主義と呼びましょう。
エンタメとしての自立を目指した「序」「破」
この新劇場版、公開される前は「庵野監督も大人になった」という制作サイドの意見が出たり、庵野秀明自身も「エンターテイメントとして作る」と言っていたので、「おお、そうか!」とエンタメとしてのエヴァンゲリオンを楽しみにしていました。
事実、「序」と「破」は洗練されたエンタメとして楽しめました。
「破」のラストでミサトさんが「いきなさい!シンジ君!自分の正しいと思う道を!」みたいな事を言った瞬間、そして綾波を救ってしまう展開には「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」と涙しながら見たことを覚えています。
何故なら、前述のとおりエヴァは様々な社会・オタク批判まで背負ってしまっている作品であり、その不自由さと対決するのが新劇場版のひとつのテーゼだとしたら、このシーンで庵野氏が当初の純粋な創作意欲に基づく精神的志向を取り戻そうとしているに違いないと思えたからです。
僕の庵野精神主義において、エヴァの登場キャラはおおむね庵野監督の人格の分身、特にシンジ君はそれでしかないと思っているので「庵野!頑張れ!頑張れエ!!」と手に汗握って見ていました。
「そうか、シンジ君もついに、救いたい女を救って終わりにするのか!
セカイ系と言われようとなんでもそれでいいじゃないか!
エヴァはカッコいいしヒロインも救う、それでいいよ、お前がそうするっていうならよ!!」
という完全にキモいオタクのテンションでした。
しかし、最後にロンギヌスの槍が月から投下され初号機を貫いてしまったとき「あ。次、どうするんだろう。」という一抹の不安が生まれたのも事実です。
エヴァがエヴァに帰ってきた「Q」
2012年に公開された「Q」は、そのストーリーが難解もしくは意味不明として「序」「破」でついた新しいファンからかなり批判されましたが、正直、僕としては想定の範囲内の展開でした。
「ああ、そっか、やっぱり大人になれなかったんだ、庵野。。。」
そんな生暖かい目で鑑賞していました。
エヴァはもとより竹を割ったようなエンタメでなく、監督の感性というしめった生綿が芸術的に絡まった作品だと思っていたので、これでもいいよ、うん、オカヱリナサイって感じでした。
が、最後まで見てみると、庵野精神主義の観点から見れば第一級の作品だと思うと同時に、いやいや、先には進まなかったが、ちゃんと前を向こうとしているじゃないかと、新たなエヴァの指針として受け取れました。
齢を取らないエヴァの呪縛は、そのままエヴァンゲリオンというコンテンツに十数年も縛られた関係者や我々古参オタクに刺さります。
また、新劇に臨むに当たって庵野監督もガイナックスを離れ、カラーを設立。
2019年末に監督自身の異例のインタビューが出ましたが、エヴァ以外の庵野監督の過去作は版権の問題で離散したり、借金で裁判沙汰になったり、色んなことがありました。
そんな事情を踏まえると、ヴィレとネルフの分裂とかもなんとなくしっくりくるし(何の確証もない穿った見方だけれど)、色んな摩擦の中で悪戦苦闘するシンジの姿は痛々しいほどに、わかる。
むしろ、こうした禊はエヴァには必要だったのでしょう。
だからとっても辛い一作だなと思いますが、それでも今までのエヴァと違うと思ったのは、シンジを憎んでいるはずのミサトさんやアスカの割り切れない人情を感じ取った点です。
ラストシーンでアスカに手を引かれ、シンジが綾波と三人で真っ赤な砂丘を歩いていくカットには、庵野も自分の世界に籠ることを選ぶのではなく、ちゃんと人と手を取り合って歩み続けていくんだという前向きな意思も感じました。
この「Q」の脱エンタメ路線を「やりつくされたセカイ系に戻った」として辛辣に批評した評論家がいましたが、それは間違っていることは以上を鑑みても明らかでしょう。
「Q」で庵野がエヴァに出した指針・綱領とは、開いて閉じた世界をもう一度開くという、セカイ系を乗り越えるような挑戦なのです。
セカイ系だったのはむしろ「破」まで。
しかし、次作は相当厳しいだろうと思いました。
まず、またしても物語が収拾がつかないレベルまで滅茶苦茶になってしまったことと、かなりの資本が入った「新劇場版」で、しかも次が最後という状況で、この時点では立て直すだけの尺も足りないし後もないと思ったからです。
実際、「Q」の完成後、庵野監督はまた体調を崩し、しばらくエヴァが作れないノイローゼ的な状況が続いてしまいます。
虚構の可能性を信じた『シン・ゴジラ』
「Q」以降、エヴァが作れなくなってしまった庵野監督のもとに舞い込んだのが『シン・ゴジラ』の企画でした。
何度か辞退しながらも最終的に引き受けた庵野監督が作った『シン・ゴジラ』のキャッチコピーは「現実v.s虚構」。
このキャッチコピーはとても良くできていて、私は現実と虚構の戦いは積極的な空想主義でアウフヘーベンされるのだと解釈しました。
(詳しくはこちらの記事↓)
ここで重要なのは、庵野監督が虚構を積極的に受け入れ、虚構には現実を変える力があると再確認しようとしている点にあります。
そして、『シン・ゴジラ』を通して今の日本にはより大きな虚構が必要だと訴えるなら、庵野監督にとってその目下の虚構とは、今建造中の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』であることは疑う余地がない。
つまり、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は監督が考える日本や、虚構として作ったはずが社会という現実に取り込まれてしまった今までのエヴァの打破、もしくはそれを刷新するような、より大きな「エヴァンゲリオン」であるに違いない、という予想が成り立つのです。
ワイも『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でオタク卒業か?
さて、それでは具体的に『シン・エヴァンゲリオン劇場版』はどうなるのか。
トレーラーが公開されてから様々な憶測が飛び交っています。
全く違う世界線だとか、繰り返しだとか、いやいや「新劇場版」としては地続きだとか、どれも楽しい考察ですが、それも枝葉の議論。
一番大切なのはシンジ君がどういう結論を導き出すかです。
しかし、あえてこの議論に乗るとしたら僕としては「全く新しいエヴァ」を目指すと思います。
しかし、その為には清算しなければいけないものが多すぎる。
エヴァンゲリオンとは、それほどの歴史・影響力、そして監督の個人史を含んでしまっています。
だから初号機と13号機がロンギヌスとカシウスの槍で戦っているのはよくわかります。
多分エヴァがたくさん出てきて何がエヴァなのかよくわからない状況でエヴァ同士が戦ったりもすると思います。
まぁ、そんな細かい事は今はどうでもいいのです。
なにしろ、この作品で庵野は自分とも、世界とも、全てと決着を試みなければなりません。
おお、どうするんだ、庵野秀明!!!!!!!!!
そして、そこにファンも巻き込まれてしまっている。
一人のファンとしで、僕のオタク人生の中でも燦然と輝き続けていたエヴァンゲリオンが終わってしまうのは、恐い。笑
庵野君がエヴァ、卒業しますといったら、僕もエヴァンゲリオンから卒業しなければいけないでしょう。
個人的には宮崎駿と庵野秀明が心の支えのオタクなので、もう宮崎駿も後がないし、庵野秀明氏がエヴァ以上の大作を作るのも厳しいと思います。
僕もオタクとして成仏するかしないかの瀬戸際なわけですが、個人的に、エヴァは終わらないのではないかと思います。
それは「ループしてるからね(笑)」という考察厨的なロジックではなく、庵野秀明という人間が、自分自身の分身であるエヴァをどう超克するのか全く見当がつかないし、超克できないのでは、と考えているからです。
しかし、超克してほしい気持ちもある。
彼の作家人生を賭けたような、虚構と現実を超えた「エヴァ」を見たいという気持ちもあるんです。
細かい考察はいろいろできるけれど、今はこのハラハラ感を楽しむのが一番正解だと思います。
答え合わせは見た後でもできるのだから。
模範解答がついてくるかはわかりませんが。笑