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シンエヴァのなり損ない『マトリックス・レザレクション』解説&感想
今日はマトリックスの新作『マトリックス・レザレクション』見てきました。
個人的な結論をいうと、続編があるなら「エクセレント!」、ないなら「壮大なゴミ」といったところ。
今のところウォシャウスキー監督(姉)が続編の制作を否定しているようなので、「壮大なゴミ」作品かな…。
一方で、ワーナーは続編を熱烈コールしているようなので、可能性がないとも言えませんが。
以下、ネタバレ前提で解説していきます。
(前半、シンエヴァと比較しながら話していきますが、当然、本作がシンエヴァを意識して作られたとかそういう話ではないです。個人的に比較対象として分かりやすいの引用します。)
シンエヴァ的メタ構造ーウォシャウスキーとモーダル
今回の新作は正直わかりにくかったという人も多いのではないでしょうか。
その原因は『レザレクション』で複雑化したマトリックス・シリーズのメタ構造にあります。
そもそもマトリックス・シリーズに底通する設定として、作中では「現実」と「仮想現実(フィクション)」が逆転関係になっているという大前提があります。
噛み砕いていえば、作中においては我々が一般に認識している現実のようなものが実は「仮想現実」であり、一方でフィクショナルでスチームパンクなSF世界が本当の「現実」なんだということです。だからこそ我々の「仮想現実」でネオやトリニティーが大暴れすることができるんですね。
このようなメタ構造の往還のなかで、視聴者の現実感覚が肥大化したり裏切られたりすることで作品の世界に没入していくのがマトリックス・シリーズの基本構造なのですが、今回の『レザレクション』では更にそこにもう一枚“メタ構造“が追加されています。
それは映画監督としてのウォシャウスキー監督が投影された、『バイナリー』というゲーム制作者としてのトーマス・アンダーソン(ネオ)の世界です。
本作の前半のほぼ全てが、ゲーム制作者として成功を収めたトーマス・アンダーソンの苦悩を描くことに費やされていますが、このパートは『マトリックス』を作ってその続編も強制されたウォシャウスキー監督の過去の体験をほぼそのまま投影されたであろう内容になっています。
(ゲーム『バイナリー』=映画『マトリックス』の図式です)
つまり、監督の実体験という「現実」を映画『レザレクション』という「フィクション」に落とし込み、その作中でも更にマトリックス的な「現実」と「フィクション」の争いが勃発するという、メタの中に更にメタがある入れ子構造になっています。
作中、アンダーソンは「モーダル(袋小路)」の中からモーフィアスを解放しようと「新しい技術でモーダルをループ」させていますが、それはウォシャウスキーがマトリックス・シリーズいう「モーダル」の中からネオやトリニティ、そして自分を解放するために最新の技術でもう一度マトリックスを作り直すこと、つまり『レザレクション(復活)』だと言えるでしょう。
この構造は『シン・エヴァンゲリオン(以下、シンエヴァ)』とそっくりなんですよ。
つまりウォシャウスキーとアンダーソン、そしてマトリックスの関係とはエヴァをもう作りたくない(関わりたくない)庵野秀明=碇シンジが第三村でウジウジし、一念発起してマイナス宇宙という「現実」と「虚構」が入り乱れるエヴァという作品世界でいろいろ解決していくという『シンエヴァ』の手法・構造とほぼ同じです。
シンエヴァ未満な理由ー「新しさ」の欠如
エヴァエヴァうるさくて申し訳ないんですが、それでは何故僕が『レザレクション』をシンエヴァのなり損ないと批判するかというと、映像に「新しさ」が一切なかったからです。
シンエヴァでは評価されたかどうかは別として、庵野秀明は悪戦苦闘しながら今までエヴァ・シリーズが作ってきた「新しい映像表現」に挑戦し続けています。
では本作『レザレクション』はどうだったでしょうか。
作中のゲーム、『バイナリー』の企画会議でデウス・エクス・マキナの社員たちは「バレットタイム!(あの弾を避けるやつ)バレットタイム!とにかくあれやっときゃウケるんだよ!」「いや、次のバイナリーに過剰なアクションはいらないんじゃないかしら」こんな押し問答をしています。そしてその中でアンダーソンの鬱は悪化していくと。
これはそのまま、配給や制作会社の意見とウォシャウスキー監督の意見の対立とみていいでしょう。しかもこの“代弁者“は実はネオを見守っていた味方だったことが発覚するわけですから、もう完全にウォシャウスキーは「過激なアクション反対」なわけです。
正直、監督が望もうが望ままいが、マトリックスという作品の革新性はその高い批評性と複雑で謎を呼ぶストーリーや演出だけではなく、まさに「バレットタイム」のようなアクションやユダヤ神秘主義的な世界観とサイバーパンクの融合にあったわけです。
しかし本作では明らかにそのアイデンティティが後退しています。
ネオの「バレットタイム」は徹頭徹尾、馬鹿の一つ覚えのように銃弾を防ぐシールドとして利用され(一回ひらりマント的な使い方とエアバッグ効果もあったけど)、それが全然かっこよくないんですよねw当然新しさもない。
ネオとスミスの戦闘シーンも、かつてのようにワイヤーアクションを利用した無重力戦闘はなりを潜めています。
ネオに吹き飛ばされたスミスが「昔と全然変わってないな」と褒めたのちに「やっぱり変わったな」という皮肉に対してネオは「その通り」と奮戦して逆転するのですが、ここで披露されるのは『ウィッチャー』シリーズで前人未到の域に到達したキアヌの格闘スキルです。
でもそれってさ、キアヌが役者としてスキルアップしたよねって話であって、それをもってして“ネオ“がアップデートされたとウォシャウスキーが主張するのは無理がありますよね。
僕は心の中でこう叫んでいました。
おい、セコいぞウォシャウスキー!!キアヌがそれ出来るのは知ってるわ!!
マトリックスは「レザレクション(復活)」されたのか?
一方で、現代に合わせてきちんと刷新された部分、掘り出された部分もありました。
例えば『レザレクション』では過去作のように「機械vs人間」というザイオン的な図式ではなく、機械と人間が手を取り合って生きるアイオ的なコミュニティが示されます。更にその中で機械同士の戦争がネオやトリニティが再構築された原因であることも明かされていますね。
この機械同士の戦いは科学に偏重した資本主義同士の資源をめぐる戦争のメタファーであって、一方のアイオ的なコミュニズムは機械と人間が手を取り合ってフルーツを栽培するなど、牧歌的なデジタルネイチャーの世界観としてザイオン的なものの結果と対比されています。
更にマトリックスの支配者は設計者から分析者になり、システムの設計からシステムを利用する人間の分析や管理に重きをおいた支配者に移行しています。彼がbotを効率よく大量生産しネオたちの行手を阻むというのも、要するにSNSの分析と扇動の話なので今風です。
極め付けはその分析官がミソジニストであることが明かされて、それをトリニティがぶっ飛ばすというのがオチになっています。
マトリックスがジェンダーの話だっていうのは何となく知っていましたが、今回はその要素を一気に全面に出してきましたね。
言われてみればマトリックスのメタファーになっている作中のゲーム『バイナリー』も「バイ」だし、スミスとネオの関係も「0と1(プログラミング上の二進法)。光と影。希望と絶望」など全て「バイ」で説明され、そのバイ構造との戦いが一貫して描かれています。
そういう意味で、終盤でスミスがネオを助けながらも牙を剥き、最終的にはトリニティの覚醒でスミスの毒牙から逃げおおせて分析官をぶっ倒す流れはよくできています。
当初から、こうしたバイ構造の克服がマトリックス・シリーズの眼目だったとしたら、今作でマトリックスは『レザレクション(復活)』されたと言ってもいいのかもしれません。
「物語は死んだ」のか?ー続編がないならただのルサンチマン
本稿の冒頭で続編があるなら「エクセレント!」ないなら「壮大なゴミ」と書きました。
そして総括すると、本作は従来のマトリックス的なアクションやビジュアル要素をあえて後退させ、ジェンダー的なテーマの掘り起こしを全面に出してきた作品であると言えるでしょう。
この作り方は、続編があるならすごくいいんですよ。
何故かというとちゃんと監督のやりたいマトリックスを再定義するために、あえて今までのそれっぽい要素は抑え気味にして、新しいマトリックス像を打ち出す準備ができたと言えるからです。
続編があるなら、今回は抑えられていたアクション要素がいつ爆発するのか?強くなったトリニティがネオと作り替える「自由な世界」ってどうなるのか?結局どうなったかわからないスミスの真の目的とは何なのか?かなり夢膨らミングなんですよ。
しかもウォシャウスキー監督はポストクレジットでデウス・エクス・マキナの社員が「映画は死んだ。ゲームも死んだ。物語も死んだ」なんて語り合うシーンを挿入してますよね。
まぁその嘆きたい気持ちはわかるんですよ、だからこそ続編があるなら「映画や物語をお前が生き返らせるんやな?期待していいんやな!?」って思えるんです。
しかし、続編がなかったらどうでしょう。
そのポストクレジットもただのルサンチマンになってしまいますよね。
続編がなければ本作であえて否定した今までのマトリックス要素や、刷新したメッセージ性も結局は全部旧作に「逆張り」しただけで終わりです。
何といっても2時間40分も上映しておきながら、最後の20分でトリニティが覚醒して「自由」で「逞しい」「女性像」が全て解決するという強引なまとめ方、めちゃくちゃ納得いきません。
マトリックスを持ち出しておきながら、今更そんな便所の壁にも書いてあるような分かりきった事を発信してドヤられても困惑しかない。
結局それってウォシャウスキーがマトリックスという過去の自分を清算して、最後にミソジニストを蹴りたかっただけじゃんwそれ以上のことは何もしていないのでただのルサンチマンの吐露にしかなってないわけです。
マトリックスのテーマとなるはずの新しいデジタルと人間の関わり合いとか、虚構と現実の中でサバイヴしていく術だったりとか、予言的な未来像とかなんもないし全部意味がないオチなんですよ、あれ。
というわけで、もし続編が出るなら全て舞台は整っていると言える一方で、これで終わりなら壮大なウォシャウスキーのオナニー映画で終わってしまうというのが僕の感想でした。
あと、やっぱりモーフィアスはフィッシャーマンがいいですね…。