#8薬剤師の南 第2話 爬虫類(小説)

 遅番を終えた時間帯でも、春の沖縄の空はまた十分に陽が高い。今の私はその空の下を歩いて家路につく日常を送っている。
 自宅のアパートに戻り玄関の鍵をかけると、じとりとした熱気が私の全身を包み込んだ。

「暑い」

 まだ春だというのにここまで暑いのはさすが沖縄というべきか。まあ、最近は関東だって春がなくなったと言われ続けているのだけれども。天気予報では今日は春の時期でも特に気温が高い日になるということだったので、今はまだ一過性の暑さなのだろう。
 だが、気温がどうであろうとも、湿気はどうにもならないだろう。特に私の住まいのアパートは歩いて海に行けてしまうくらいのところに建っている関係で、外に出ても海風のせいで湿度は常に高いのだ。

 バッグをリビングの床に置き、冷蔵庫のミネラルウォーターを一杯飲んだところで、この住まいに引っ越しをして以来、持ってきた洋服の整理をろくにしていないことを思い出す。

「夏が来る前に、少しクローゼットを整理しなきゃな……」

 これから仕事が忙しくなれば季節の変わり目で必要な服を探すのがおっくうになってくる。今のうちに服を片付けておこう。そう思ってクローゼットを開ける。

 すると、その床で小さな何かが動いた。

「ゴキブリ……かな?」

 私は思い切って服がかかったハンガーをスライドさせて壁から離した。その先には、ゴキブリより一回り細長い何かが滑らかに壁を登って行った。私は目でそれを追う。
 長い尻尾に指先がはっきりと飛び出た手足。
 トカゲ?

「ひぃ!?」

 全く予想外の生物が部屋の中に現れたことで私は後ろに飛びのき、強く尻餅をついてしまった。予想通りゴキブリが出てきていればまだ心の準備ができていたというのに。

『へー、爬虫類ときたか。どこから入ってきたんだ? こんなの。ってか、これ本当にトカゲ? なんか違うような……』

『イモリか……それともヤモリ、でしょうか? 依吹も知らないようですが』

 私の前で、二人の少女が壁にへばりついて静止したトカゲらしきものを身を乗り出してまじまじと見つめている。
 私が幼いころ、薬剤師を目指すきっかけとなった女性がいる。その人にもらった子ども向けの『生薬図鑑』に載っていたキャラが彼女達だ。現代の言葉で表すのなら、この二人の少女は生薬の擬人化だ。
 夢見がちだった小さな私がその図鑑を開いた時から、この子達はずっと私の中に生きた妄想として居座り続けている。
 やや口の悪い方は<桂皮>。明るい桃色の髪にシックな色調のヒラヒラな衣装を纏っている。
 もう一人は<釣藤鈎>。すらっとした出で立ちに、艶のあるロングヘアが落ち着いた雰囲気を醸し出している大人女子だ。
 この子達が現れるということは、私の頭の中にはまだこの状況を俯瞰できる冷静さが少しは残っているようだ。

『で、あんた、これ、どーすんの?』

 桂皮が私のほうを向き、大して興味がなさそうに言った。

「うちの外に出すに決まってるでしょ! 寝てるときあれが顔に這ってきたら怖すぎて寝られない!」

 それを見た桂皮は悪戯じみた笑みを浮かべ、

『そんなことをするより叩き潰せばいいんじゃない?』

「嫌ぁ! ゴキブリよりヤバい絵面になる!」

『では、どうやって外まで誘導しましょうか? どうもゴキブリより動くのが速いようでしたが……』

「とりあえず、紙!」

 釣藤鈎の言葉を聞き終わる前に、私は郵便受けに入っていたチラシを貯めこんでいた袋の中から適当に紙の束を掴んだ。その束でトカゲを掃いて動かそうとしたが、トカゲはすぐさま紙の横に逸れて逃げ、クローゼットの中でまた止まった。

「は、速い……」

『元気がいいですねー。そのトカゲさん』

 露出の少ないネグリジェを着こんだ別の少女がフローリングに直に正座をしながらのんきに傍観している。彼女は<芍薬>。おっとりしすぎていて、立てば芍薬何とやらという諺も彼女に当てはめるのは難しい。まあ、この諺は美人を例えた言葉という他に、それぞれの植物の生薬としての利用方法を示したという説もあるそうなので、鎮静や鎮痛作用を期待されて漢方に使われている芍薬を擬人化したものとしては、大体的を射ているキャラだ。

『依吹ちゃん。ここは先人の知恵に頼りましょう』

 さらにもう一人、小柄で子供のような風貌の<麦門冬>が私の服を軽く引っ張って声をかけた。麦門冬の元々の植物であるジャノヒゲの濃紺の種子や小ぶりの花を模した装飾が彼女の可愛らしさを引き立たせている。だが、生薬の麦門冬として利用されるのはジャノヒゲの根が肥大した部分なので、種子や花は麦門冬の薬効とは関係がないのだ。例の図鑑の著者は子供にも親しみやすいキャッチ―な要素を抜き出してこの子をデザインしたのだろう。

「回りくどいこと言ってないで、それって何? 教えて!」

 私の中にしか存在しない彼女達を相手にそんなことを言っている私も十分回りくどい。いや、回りくどいのではなく、ただの変な女だ。傍から見ればただの独り言で喚いているだけなのだから。

『スマホで調べるのです。この場をどうにかするには近くの海よりネットの海のほうが頼りになります』

「あ、そうか」

 冷静さを取り戻した私はスマホに駆け寄りディスプレイを点けた。まずはターゲットの正体を知らなければ有効な対策は立てられないと考えた私が検索したのはトカゲの種類。仕事で疲れている中、なぜ爬虫類の画像をいくつも見比べなければならないのか、という自分にげんなりとしていたが、ようやくクローゼットに陣取る相手の名前が見つかった。

「ヤモリ、か」

 種類を特定できても大した感慨は湧いてこなかったのだが、

『ヤモリさんですかー、手が丸っこいのが可愛いですねー』

 芍薬がスマホを覗いて言う。この爬虫類の手だけは可愛いと思ってしまったのか、私は。
 次は追い出す方法だ。ヤモリは縁起のいい生き物と書いてあるサイトが山ほど出てきたが、今はそんな情報は役に立たない。私は一刻も早くヤモリを追い出したいのだ。

「上から箱などを被せる……よし、これでいこう。確かまだ引っ越しの時の段ボールが残っていたはず……」

 物置と化していた別のクローゼットに畳んで入れていた段ボールを急いで引っ張り出すが、

「うえぇ……なんか湿ってるし、カビが生えてる……」

 広げて箱の形を再度整えた段ボールは、湿気が溜まってできたであろう変色に、カビらしき斑点が少しだけ発生していた。

『依吹、気が進まないでしょうが、これを使うしかありません』

『ファイトです、依吹ちゃん』

 釣藤鈎と麦門冬が私の両側に現れて声をかける。
 私はまだ同じところに留まっているヤモリのところに戻り、ゆっくりと段ボールを近づけ、最後は壁に叩きつけた。
 ヤモリが箱の外に出たような様子はない。囲いこむことに成功したようだ。

「よし、ここからベランダまで行こう」

 まずは箱を壁に沿ってずり降ろし、床に付けることを目指す。壁と床の直角な部分は一度箱の角度を変えなければならず、一瞬ヤモリの逃げる隙間ができてしまう。一か八かの賭けになる動作だったが、どうにかヤモリは逃げずにいてくれた。
 そのままフローリングに箱を押し付けながら、カーペットを片手で投げるように大きく捲り、段ボールを必死に監視しながら進む。

『イブキー、がんばれー』

「あんたは黙ってて」

 雑に捲られたカーペットの上に寝っ転がった桂皮に私が返す。
 ベランダに到達した私は窓を全開にして、段ボールを全力でベランダに押し出した。吹っ飛ばされたヤモリは、今までのことなど何もなかったかのようにベランダを素早く這い、壁の合間からどこかに行ってしまった。

「……疲れた」

 我に返ってみると付けば汗だくだった。帰宅してから冷房も扇風機も使っていないことに気が付いた。大きく開けた眼前の窓から吹き込む外気は夜が近づくにつれて涼しさを増しているものの、相変わらず湿気は高い。

「晩御飯は何か買ってこよう……でも、まずはその前にシャワーかぁ。もう汗でベトベト」

 自炊くらいはしたかったが、今日はもう疲労困憊で余計なことを考えられなかった。それに呼応するかのように『彼女達』はいつの間にか部屋からいなくなっていた。


※この小説はフィクションです。実在する人物、団体等とは一切関係ありません。また、作中の医療行為等は個人によって適用が異なります。

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