#50薬剤師の南 第8話 夏休み [小編] (小説)
「なーんかさ、前より全然売れてないっぽい?」
私達の目の前を次々と人の波が通り過ぎていく、夏コミの会場――ブースの中で私の右側に座った桃が机の上の同人誌の束を見ながら呟いた。確かに桃の言うとおり、例年であれば午後にさしかかるころまでには少なくとも三冊くらいは売れていたが、今回はまだ一冊だけだ。
「やっぱさー、マシ×ドミじゃなくてドミ×マシ本にしたほうがよかったんじゃない? アイアートの絵のタグもドミ×マシの方が多かったし」
「あのさ、今さらその話を蒸し返さないでくれる?」
反対の左側に座るのは美冬。不穏な会話を始めた二人の間に私は挟まれてしまっている。まあ、二人になった途端に他の一人の悪口を言い出す陰湿な関係だったら非常にマズい事態だけど、二人も私もそのあたりの節度はわきまえて活動しているし、これまでにも同じような揉め事は何回かあったけど結局なんだかんだで元鞘で終わってるから、今回もあまり心配はいらないだろう。
桃の言うことは本当なのか、私はスマホでアイアートのタグの数を調べた。
「マシ×ドミが761、ドミ×マシが787……」
目糞鼻糞……もとい、五十歩百歩のレベルだった。
「たった20くらいしか差がないじゃない! 受験勉強のしすぎで頭がどうかしちゃったわけ!?」
「数字をもとにした事実を言っただけだよ!」
「ってか、売れないって愚痴ってるけど、作りたいものを作るのがこういうところでの健全なやり方でしょ!? ウチみたいなサークルは売り上げを気にしてもしょうがないじゃん!?」
「売れないより売れたほうが楽しいだろう!?」
だいぶエスカレートしているようだったが放っておいても大丈夫だろう。明らかに桃が一方的に難癖をつけているだけなので、喋るのに疲れてくれば自分から折れるはずだ。
(あ、ポスター外れてる)
後ろを見ると、ブースの後ろに吊るしていたポスターのクリップが片方外れていた。席を立って見に行くと、クリップ自体が壊れて、噛み具合が弱くなってしまったようだった。これは他の物を使って固定しないとダメだと思った私は床に置いた道具箱からセロテープを探す。
私の背後で二人はまだしょうもない言い合いを続けている。
「いい機会だ美冬。一生に一度はリアルで言ってみたかった台詞があるんだが、それを言う時がついに来た」
「何それ?」
「――表に出ろ!」
「嫌だ。外に行くのにどれだけ歩くと思ってんの? 中二病気取りもいい加減にしてよね! 今何歳だと思って――」
「すいません、本のサンプルを見せてもらってもいいですか?」
突如、別の女性が机の二人に声をかけた。あの二人の応酬をぶった切って話しかけるとは、なかなかの強者だ。しかしこの声、最近聞いたような気がしてならない。
「はい! どうぞどうぞごゆっくり!」
桃がウキウキな様子で反応した。普段はダウナーなのに、こういう対応はニッコニコで捌くのが風間桃という女だ。実に接客業に、ひいては薬剤師に向いている気性だ。
本日二人目の来訪者に、私も道具箱からその人物の方へ顔を向けた。
が、その高い背丈の彼女を見上げて目が合うと、私も、その彼女も、お互いに硬直せざるを得なかった。
――いらっしゃいませ……上原、摩耶様。
フリーズした思考が元に戻るとともに私はブースを迂回して摩耶ちゃんの背中を掴み、有無を言わさずうちのブースの裏に連れこんだ。
話の口火を切ったのは私。
「何でこんなところに!?」
「こっちが訊きたい……アイアートでサークルをチェックしてたけど、依吹がいるなんて……」
「まさか、本のサンプルにスタンプを送った『とりとり』さんって……」
「私」
ああ神様……何の神様なのかはわからないけど……こんなことが起きてしまっていいのでしょうか?
「沖縄からわざわざ来たの? コミケのために?」
「ん? 依吹、何か誤解してない?」
「え?」
「私、沖縄の出身じゃない。実家は東京。うちの家族は全然沖縄と関係ない。依吹と同じ、Iターン就職組」
「そんな話聞いてない」
「なら、たぶん言ったことがない。あっちで会ったの、まだ二回しかないし」
摩耶ちゃんはそこまで喋ると「他にも回りたいサークルがあるから」ということで、うちのサンプルもろくに見ないままそそくさと一冊を買い、人混みに消えていった。
「どうしたの?」と訊く美冬、そして「どこで知り合ったの? コスプレで男装すれば映えそうなあの人」とからかう桃に対して、
「あの子、私達と同い年で、薬剤師で、沖縄での知り合いだから!」
もう、何と紹介すればいいのやら……
これが社会人になって初めての、あっと言う間の短い夏休みの出来事だった。
※この小説はフィクションです。実在する人物、団体等とは一切関係ありません。また、作中の医療行為等は個人によって適用が異なります。
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