#26薬剤師の南 第5話-3 spica de trillion[小編] (小説)
「いやー、いい暮らしだよねぇ。仕事はこれでもかというほど順調、職場の人間関係も問題なし、少し歩けば眺めのいい大海原、それでいて夏コミの同人誌を書くほどの時間もある」
桂皮が私の目の前の机に座り足を組み、パソコンのディスプレイを撫でる。私は桂皮を見上げながら、
「何? 何が言いたいのよ?」
「自分でわかってるでしょ。このままずっと過ごせるわけがないって」
「まだ依吹はこの生活を始めたばかりです。さっきの美冬と桃の話にもありましたが、仕事でなくてもこれから先、どんなこと起こるのかはわかりません」
と釣藤鈎。
「良くも悪くも、開けてびっくり玉手箱。ちょっとした運や巡り合わせの悪さで現状がひっくり返りかねない。それが今の依吹ちゃんかと」
「どんなことがあっても、ニコニコ笑っていたいですよねー。そうすれば解決することもあると思いますよー」
麦門冬と芍薬も意見する。
「大体、何であんた薬――」
桂皮がそう言いかけるとスマホが振動した。
「電話? 誰だろう……薫?」
妹の薫からだった。
「もしもし、お姉?」
「薫、どうしたの突然」
「いきなりで悪いけど、あと二週間したそっち行くからよろしく。大学の休みと養成所のスケジュールの都合がついたからさ」
「二週間!?」
おいおい、こっちの都合は訊かないのか妹よ。まあ、薫のそそっかしい性格を考えれば『らしい』急ぎっぷりだ。こういうときは喋り終わるのを待ってからきっぱりと断るのが正しい薫への対処法だ。まあ、私は結局大した用事もないので薫の言う通り、うちに迎え入れることになるのだが。
「両方のスケジュールがある程度空いてることなんてこれが初めてだし、しばらくは連休なんて取れなさそうだからさ。沖縄楽しみだなー」
「ちょっと待って。薫の為だけに休みなんてとれないよ?」
「観光なら自分で行くから仕事は休まなくて大丈夫です。寝るところだけ貸してもらえれば。細かいことは近いうちにラインするから。じゃ、おやすみ!」
暴風雨のように去来した電話が切れる。
(まあ、いいんだけど……とりあえず薫が来る前に部屋を片付けるか)
ふとパソコンの電源を消し忘れていたことに気づく。モニターを見ると、薫との電話中にアイアートにアップした同人誌のサンプルページのコメント欄に書き込みがあった。
(反応がずいぶん早い……と思ったけど、うちのサークルのフォロワーの人か)
とりとり 21:36
GOOD!
と、スタンプが押されていた。
(この『とりとり』さんって、今までコメント返したことあったかな……覚えてないな。もしかすると、もう何回も買いに来てる人だったりして)
私はひとまず、『ありがとうございます』のスタンプで応えた。
私の思考の中にいる生薬達はもう部屋から消えていた。はっきりと彼女達と会話を交わせるほどの元気が私にはもはやなかった。もう寝ようとパソコンの電源を切り、就寝の支度を始める。
(この先はわからない……そうだよね)
彼女達の思考は私の思考そのもの、だからさっきの彼女達の懸念は私の懸念である。環境に恵まれていると思っていても、知らない土地に来たことへの不安感は拭いされていない。今さらその現実に私は気が付いたのだった。
※この小説はフィクションです。実在する人物、団体等とは一切関係ありません。また、作中の医療行為等は個人によって適用が異なります。
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