絶世の美人の頭部は火に包まれ頭蓋骨になった【SHORT】
下記の企画より設定を一部拝借しています。
フルバージョンが間に合わなかったので、ショートバージョンとして途中で完成させたものです。フルバージョンが正史で、こちらはIFとして投稿します。
本文
「おめでとう!」
「ありがとう、君も契約し終わったの?」
「ああ、無事に魔法使いになったよ」
四つ角に設置された、水色の蛍光色を放つ四柱を光源とした広場は、小一時間前の静寂が嘘のように、新人魔法使いたちのざわめきで満ちていた。同色に発光する床に照らされ、目の下の影がなりを潜め、鼻や唇の上に影が伸びる新人魔法使いたちの顔からは、多かれ少なかれ喜びがこぼれていた。
「契約はどうだった?」
「こえぇやつだったよ。でも代償は軽めで済んだ」
「私も軽めだった」
「軽い代償で魔法使いになれたやつはラッキーだな」
契約を終え、魔法使いになった愛弟子たちが高揚し半ばはしゃいでいる様子を、教師陣は暖かい眼差しで見守っていた。
「こら、まだ戻ってきていないやつも居るんだ。静かにしなさい」
教師の一人が一声上げると、新人魔法使いたちの声量はわずかに小さくなった。
「まだ戻ってきていないやつって誰だ?」
「そういえばヒドリが居ないね」
「お前、ヒドリが魔法使いになって戻ってきたら恋人になって下さいって告白するんだろ?」
ゆらりと、原始的な火が闇の中で尾を引いた。
「ちょっとちょっと、あっちにも同じこと言ってる人居たよ」
弱々しい靴音を鳴らす黒塗りの革靴には、橙色の暖かい火の光が落ちていた。
「さすが絶世の美人、ヒドリ様は違うね」
一人の教師が契約から帰ってきた弟子に気づき、かけようとした声は出なかった。
だんだんとヒドリの登場を楽しみにする雰囲気が弟子たち全体に広がっていった。
「ヒドリって千年に一人の美人って呼ばれてるあの?」
「ああ、私見たことあるけど、本当に今まで見てきたどんな芸術作品よりもきれいだから、楽しみにしてな」
青ざめる教師にいぶかしげな視線を送りながら、隣の教師が契約から帰ってきた弟子を迎えようと一歩踏み出した。
「お帰り、ヒドリ」
そうかけた声は尻すぼみになった。
しかしその声に反応した弟子たちは一斉に振り返った。
誰も声を発さなかった。
新人魔法使いとしての契約のために着用したローブの上に乗っていたのは、空に向かって尾をたなびかせる一つの火の玉だった。一見すると頭部にだけ放火された人間だった。しかし首から下は正常に機能しているようだった。
火の奥で焼け焦げ燃え続ける頭蓋骨が薄らと見えた。眼孔にはまっていた眼球はとうていそこに存在し続けられないように思えたが、一対の眼は火よりも濃い色で光り、存在を主張しているのがわかった。
一人の生徒がその場で嘔吐したのを皮切りに、我に帰った教師の一人が慌ててヒドリ本人であることを確認するために駆け寄った。
魔法使いになるためには、魔法を使う力を授けてくれる存在と契約する必要がある。ある程度の訓練と勉強を積み、準備の整った弟子たちはそれぞれの適正に応じた存在と契約をする。これが完了して初めて新人魔法使いとなることができる。
しかしこの契約には代償が伴う。代償の内容は人それぞれで、重さも人それぞれだったが、今期の生徒たちの中でヒドリは最も重い代償を負った。
「ヒドリの代償見た?」
「見た。悪いけどもう顔見たくない」
人気のない廊下を歩きながら、教室内から漏れた声が耳に入り、ヒドリは寮の自室へと足を速めた。
「あの美人が」
「気の毒に」
「気持ち悪い」
「もう見れない」
契約の夜が終わってから散々陰で言われた言葉の数々だった。もう誰も目を合わせてくれなくなった。言葉を喋れなくなったヒドリに話しかけてくれる者はいなくなった。優しい者でも、優しさ故に心を痛めてくれているのか、痛ましさのにじむ笑顔を作って二言三言話しかけてくれたあと、居心地悪そうに去っていく。
そういった優しい心を持った同期に感謝できるほどの余裕は、ヒドリの心になかった。
逃げ帰るように電灯のない自室に入ると、ヒドリの火で室内が昼間のように明るくなった。教師陣が作ってくれた、ヒドリでも問題なく横になることができる闇のベッドにヒドリは飛び込んだ。
布団を被り、ベッドに顔を押し付けた。
契約が終わってからヒドリの生活は一変した。周囲の扱いだけではない。普通のベッドには火が引火するため寝れなくなった。今まで住んでいた部屋は引き払い、この身体になって要らなくなったり使えなくなったものは全て処分し、教師が作ってくれたこのベッドと燃えないものを傍に置いて暮らしていた。
呼吸や食事や水分摂取の必要がなくなり、排泄も必要なくなった。ヒドリは完全に魔法で生かされる存在になった。その代わり、頭部の火が消えたら死ぬということだった。
食堂に用がなくなり、容姿のせいで外に出かけづらくなり、魔法の指導以外で外に出る用事がなくなり、引きこもり、ますます他人と疎遠になっていた。
布団の中で自分の腕が目に入った。契約の夜から二週間が経ち、身体は病的に痩せ細った。骨と皮を残して全てを削げ落としていく自身の身体を目に入れるのは痛ましかった。
枕にあたる暗闇に顔を埋めた。何も見たくなかった。睡眠すら必要ない身体になったが、寝ようと思えば寝ることはできた。それが唯一の救いだった。人間でいられた。
「新たな魔法使いの船出を祝う『魔法使いの夜』が来週にある」
ヒドリはゆっくりと拳を握り込んだ。
「契約の成功と魔法使いの誕生を、契約相手を含む界隈全体が祝福する。私からの祝いの言葉はそこまで取っておく」
脳内で反響する今日の教師の言葉から目を背けた。契約で失ったものが多過ぎた。
「ヒドリ」
よく会話していた、友人と思っていた学友が微笑んでヒドリに話しかける。
ヒドリも応じる。学友の名前を呼び、たくさんの人々に褒められてきた笑みを見せて、たわいのない言葉を紡ぐ。
学友の背後に置かれた鏡には、何度も見た自分のきれいな顔が映っていた。
「美しい」
「絶世の美人だ」
「こんなにきれいな人間は見たことがない」
「性格も良いし」
「何人の人を恋情の沼に落としてきたんだろうな」
「そこにいるだけで光になる」
「美の神の化身なのかもしれない」
「良い人だ」
言葉が傍を通り抜ける。
しかしだんだんと、口が重くなってきた。おかしいな、喋り疲れたのかな。
声がかすれ、出なくなった。
ふと鏡に見たことのない光源が映った。
自分の顔が、燃えていた。痛くはない。しかし火の奥の自分の顔は、頭蓋骨を残しているだけだった。
目の前の学友は俯いていた。話しかけようとしても、声は出ない。学友は歪な笑みを見せながら顔を上げた。
「ごめん、このあと先生に呼ばれてるんだ」
そう告げた学友が走っていく。その先には、ヒドリとも仲が良かった数人の同級生が居た。ヒドリの学友を迎えた同級生たちは、楽しげに話しながら歩いていく。
そこに自分も居るはずだった。数週間前までは、自分も居た。
「ヒドリ?」
少し遠くで誰かが囁いた。
「残念だよね」
「もうあの宝みたいな美貌を拝めないのか」
「グロいから傍に来て欲しくない」
「喋れなくなったし表情もないから、何考えてるか全然わかんない」
いつの間にか囁く人数は増えていた。
「ヒドリを好きなやつなんてもういるのかしら」
「近寄りづらくなった」
「人間に見えない」
「本当にヒドリなの?」
「実は怪物なんじゃない?」
「ずっとそばにいると食われそう」
食堂のテーブルで同級生たちが食事をしている。彼らの顔には笑みが広がっていた。「美味しい」と口々に言い、おかわりを求めに行く。
大食いな同級生がスプーンに盛った肉や野菜を次々と頬張っていく。皿の山が出来つつあるその同級生を横目に、こんがりと焼き上げられたパンがいくつかヒドリの前には置かれていた。
ごつごつとした凹凸を感じるパンの表面を手でがっしりと掴むと、震える手を恐る恐る口元に持っていった。思い切り口を開く。食事時の口の開き加減などとうに忘れた。
パンの焦げる臭いがした。パンを噛み切るために口を閉じた。何も口内に入ってこなかった。手の中のパンに目を落とすと、口に向かって差し込んだ箇所が真っ黒に炭化していた。
「ヒドリ、食べれないの?」
横からすっと手が伸びてきた。
「じゃあちょうだい」
一人がヒドリの皿からパンを一つ取っていった。
「私も」
それを皮切りに次々と周囲から手が伸び、パンをさらっていく。
皿からパンが消え、ヒドリの手に半ば炭化したパンが残った。
食器の触れ合う音がそこかしこで響き、談笑する楽しそうな声が食堂に満ちていた。誰かがパンに噛みつき、引きちぎる。歯とスプーンの金属が触れ合う音が聞こえる。器に口をつけてスープをすする者もいる。肉にかぶりつき、肉汁で溢れる口の中を冷ますように息を吐きながら「うま、うま」と誰かがこぼす。
急かされるようにヒドリがパンを無理矢理口の中に押し込む。口の中に何かが入ってくる感触はなかった。ただ炭がぽろぽろとテーブルに落ちた。
「あーあ」
「もうお茶会にも呼べないね」
「気持ち悪いから食堂に来ないで」
顔を上げられなかった。何もなくなった皿を見つめた。
誰かが呟いた。
「ヒドリって、もう人じゃないよね」
ヒドリは覚醒した。電灯がないのにすっかり明るい天井が見えた。
動悸がした。心臓が追い立てられているかのように忙しなく動いていた。服が湿っていた。冷や汗だった。
慌てて上体を起こし、手首に埋め込まれたインプラントからスケジュール表を呼び起こす。手首の穴からぼんやりと青白い光が立ち上がり、その中に表の映像が浮かび上がると、今日が休日であることを思い出した。
青い光が消え、部屋は原始的な暖色の炎によって染め上げられるのみとなった。
外の廊下を駆ける同級生の足音が聞こえる。はしゃいだような声が玄関口へと向かっていく。皆、平日はまず行くことができない表世界へと遊びに出て行るようだった。
聞き覚えのある声も聞こえた気がした。いつも遊びに出るときに誘ってくれていた同期たちだ。
その声はヒドリの部屋の前で小さくなった。通り過ぎていく。
ヒドリの部屋に立ち寄るものはもういない。契約の夜が全てを変えてしまった。
動悸がだんだん激しくなっていることに、ヒドリは気付いていなかった。扉を隔てた向こう側の同期たちの声が脳内に反響した。扉の向こうは暖かかった。
生体情報を常に監視している手首のインプラントが異常を告げる歪な音を立て始めた。
すぐそばでかすれ声が聞こえた。
弾かれたように顔を上げると、鏡でよく見たきれいな顔をした自分が、炎に包まれた頭蓋を持つ自分に首を絞められていた。
わずかに空気のこぼれる口からかすれた音を漏らす自分の顔を見たかったのに、見えなかった。みしみしと骨が折れるのではないかと思えるような圧迫音が聞こえる。心臓が跳ね上がった。
やめてくれ、殺さないでくれ
叫び声は出なかった。声すらも奪われた。
インプラントがやかましい音を立てている。
靴音が人気と灯りの少ない裏路地に響く。今どき珍しい、原始的な橙色の火が辺りを明るく照らし、靴音とともに動いている。
路地の隅で、頭部のインプラントが顔前に投影した何かの画面を操作していた、みずぼらしい風態のヒゲ面の人間がギョッとした様子で光源に目をやった。
赤々と燃え上がる頭蓋をさらしたヒドリが、ふらつきながら路地を歩いていた。
怨霊や幽鬼が犠牲者を求めて徘徊しているような異様さを感じたヒゲ面は、すぐに目を逸らした。
この路地が魔法使いたちの住む裏世界に続く路地であることを思い出し、ヒゲ面が顔を上げたときには路地の薄暗さが戻ってきていた。
両手首のインプラントが埋まっている箇所に違和感を覚えたが、その正体が痛みであることをヒドリは自覚できていなかった。
寮を出て、多くの同期が遊びにやってきている、魔法を使わない一般人たちの住む表世界へとやってくるまでの記憶がなかった。
意識はどこか曖昧だった。全てが夢のようにふわふわとしている。かつて星が瞬いていたという夜空は魚眼レンズを通して見たかのように歪んでいた。ただ感情を抱いた本能がヒドリの足を突き動かしていた。
暗い路地から、躊躇なく光に満ちた表通りに踏み込んだ。青白いネオン色の光を数多の看板が放っている。通りに面したガラスの奥から冷たい光が溢れて路地にこぼれ、昼間のように通りは明るかった。小型の掃除用機械が通行人の邪魔にならないように控えめに動き回り、見た目の再現率の低いアンドロイドが歪な直立二足歩行を再現している。
店から漏れる音楽と通りにたむろす人々の声と、注意事項を喚起する機械音声や金属音、頭上を走り抜ける空中走行車の風切り音が混ざり乱れていた。
ヒドリの頭の中で色を伴ってぐちゃぐちゃと混ざり合う音は、車酔いのような気持ち悪さを呼び起こしたが、ヒドリの胃には吐き出せるものはなかった。
ちかちかと黒を帯びた花火が、身体が眩しいと感じていることを知らせるように視界に咲き乱れた。
大通りを堂々と歩く。以前の自分がしていたように歩く。ぐにゃぐにゃと脳裏が歪む。
通行人たちはヒドリに気づくと、ぎょっとしたような表情を浮かべてすぐに目を逸らし、ヒドリから距離をとりつつ足早に通り過ぎていく。
ああ、灯りがきれいだなぁ
不意に立ち止まった自分が胃液を地面に吐き散らしたことにも気づいていない。
あの店、今度みんなで行きたいなぁ
ヒドリが近づくと、人の波が二つに割れた。
きっとみんなで行ったら楽しい
ヒドリが近づくと人々は声を潜め、一瞬横目で見た後、何事もなかったかのように過ぎ去っていく。
試験管のような形の香水噴射器を人差し指と親指で持ったマークを、通りに面したガラスに映写している店がヒドリの目に入る。
香水、しばらく買ってないな
立ち止まり、胃液を路面に吐き出す。そばを歩く通行人が顔をしかめた。
胃酸の臭いを嗅覚は脳に届けなかった。脳裏には自分を囲む仲間たちと笑う自分の姿と匂いが満ちていた。君に似合う匂いだと褒められて、ヒドリは嬉しかった。あのときの嬉しさと香りに手を伸ばした。
香水を買おう。とびきり自分に似合うやつを買おう
ふらついた足取りで香水店へと向けた足を、別の匂いが止めた。
青白い電灯の下のカウンター席で、ずるずるとラーメンをすする客が居た。無人のラーメン屋台だった。カウンター席の奥で、ラーメンを作り販売することだけをプログラムされた機械腕がせっせと作業している。今の時代にしてはアナログにも、きちんと火を使って麺を茹でて料理しているらしかった。
良い匂いが鼻をくすぐる。客が美味しそうに音を立ててラーメンをすする。腹は空かなかった。もう何も食べなくなって二週間になる。全く腹は空かない。
でも食べたいと思った。そして今の自分の身体に物を食べる機能がないことを思い出させられた。
一瞬冷えた心臓を無視して、機械腕に注文しようと開いた口から声は出なかった。出せなかった。どんなに大声を出そうとしても出なかった。
それでもその場から離れられなかった。湯気を立てているラーメンが、人々の腹に収まっていく様子に釘付けになった。食べたいと思った。しかしどうすることもできなかった。
ぱらぱらと雨が都市を濡らし始め、人通りが多少減った。ヒドリはラーメン屋台のそばから離れられなかった。
そばで小型清掃ロボットがヒドリの吐瀉物を掃除している。通行人たちは不審げな視線をヒドリに向けていく。ラーメン屋台を任されたプログラムは淡々とラーメン作りを続け、路傍に立つ警備アンドロイドはじっと無機質な視線をヒドリに向けていた。
空腹は感じなかったが、食べ物を腹に入れたかった。
降る雨はヒドリを濡らせなかった。頭部の火が雨を受けつけなかった。ヒドリの身体は常に乾いていた。
ラーメンを食べたい。
欲求がはっきりと主張したが、足は動かなかった。
「こんばんは」
一人の人間がヒドリのそばに立った。
「美味しそうな匂いですね」
ヒドリにその人物の顔を見る余裕はなかった。
少しの間を置いて、その人物は続けた。
「私は麺類が好きでね。特にこの時間にああいう屋台があるとつい入ってしまいます」
ヒドリの反応を確認するように少しの間口を閉じ、また開いた。
「どうですか、食べて行きませんか」
客引きか、と頭の片隅で興味なく思った。思考のほとんどが動いていないヒドリは黙っていた。
客引きらしき人間はやはりしばらくヒドリの様子を窺っていた。
「表の世界には裏にはない面白いものが多いですね」
薄氷に覆われ固まっていた意識の水面がこつこつと叩かれた。
「自宅は表にありますが、魔法使いの友人を裏から招くとやはり楽しんでいきます」
客引きがヒドリの顔を覗き込み、自然と視線がそちらに向いた。
明るい緑色の髪が肩まで伸びた色白の人間の大きな顔がそこにあった。
「わくわく、しませんか? あなたも、裏から出てきたのでしょう?」
この距離で人の顔を見たのは久しぶりだった。かすかな風を受けて揺れるヒドリの頭蓋を燃やす炎と、たまに散る火の粉に動じることなく、客引きはヒドリの頭部を覆う炎の奥に身をひそめる頭蓋骨の眼孔をひたと見つめていた。
じっと客引きはヒドリの返答を待っていた。意識を覆う薄氷がぱきぱきと音を立てた。
開いた口からは何の音も出てこなかった。契約の夜とその代償の記憶が意識に押し寄せ、身体が震えだした。身体を濡らすことのない雨の存在が急に意識に迫り、その場の重い空気に宿る寒さが身に染みた。ラーメンの匂いよりも湿った雨の臭いが急速に強くなり、鼻を突いた。
防衛本能が懸命に記憶を意識外へと押しのけようと働き出すと同時に、ヒドリは震える身体を両腕で抱いてうつむいた。
その様子をじっと見ていた客引きは再び口を開いた。
「契約をしてまだ間もないように見受けられますが、裏世界のどこからいらっしゃったんですか」
びくりと身体が震えた。かつて話すための舌が収まっていた顎をかちかちと動かした。
ない。舌がない。声が出ない。あれだけ使っていた舌がどこにもない
身体の震えが激しくなった。
「……大丈夫ですか」
怪訝な声音で客引きが言うと、その声で弾かれたようにヒドリの片腕が上がった。
片腕とともに顔を上げたヒドリの目に入ったのは、自分の人差し指の先に灯る赤い火だった。
人との交流が希薄になり、一人でずっと勉強していた。何度も練習した火を灯す技術が、無意識に働いていた。
火を湿った空気の上に置くように、宙をなぞった。大切な学び舎の紋章はしっかりと記憶していた。
やがて出来上がった火でできた紋章は、雨をものともせずにしっかりと燃えていた。紋章から震える指先を離すと、指から火が消え、宙に紋章だけが残された。
原始的な火のぎらついた灯りは、電気による光源で生かされているこの都市には不釣り合いだった。ヒドリの見た目も相まって、ちらほらと通行人が立ち止まり始めた。ラーメン屋台の客も居心地悪そうにちらちらとヒドリに目をやった。そばで微動だにせず立つ警備アンドロイドと、淡々と注文に従うラーメン屋のプログラムはただ自分の仕事を行っていた。
「……あそこのお弟子さんなんですね。もちろん知ってます」
立ち止まって見物する通行人を追い払う何人かの声を聞きながら、客引きはうなずいた。
「補導という言葉があるかと思います。表の世界で若く幼い青少年に対して行われるものです。裏の世界にも多少対象層は変わってきますが、あります」
客引きはちらと背後の仲間に目をやった。
「これからあなたにそれを執行します。ついてきてください」
震えのおさまらないヒドリは声なく地面に胃液を吐き出した。
客引きかと思われたその人間は顔をしかめ、背後の仲間を数人呼んだ。
すっかり肉の削げ落ちた足を折り、その場にうずくまるヒドリに、呼ばれた数人が駆け寄った。
紋章の火が消え、掃除用の小型ロボットが吐しゃ物を掃除するために駆動音を鳴らして近寄ってきた。
昼間のように明るく冷たい表通りの灯りよりも劣る、比較的薄暗い通りの一角に立つ、清潔感のあるひときわ大きく技術の発達していそうなビルにヒドリは連れ込まれた。
「精神を安定させる」と薬を腕から注入され、魔法技術者でないと扱えないという照射機で謎の光に照らされた。二十分ほど光にあたり、通りでヒドリに話しかけてきた緑色の髪の人物の対面に座らされたときには、震えは止まりある程度の落ち着きが戻ってきていた。
「申し遅れましたが、私はクル・メアです。お気づきのことと思いますが、表裏の世界の秩序を守るために裏世界の者たちの取り締まりをしています。ここは我ら組織の本部です」
クルメアはそばに立っていた部下の一人に目配せし、部下が部屋から出ていくのを見届けながら、言葉をつづけた。
「あなたは魔法学校の学徒だと名乗ったので、今確認を取りに行かせています。いずれ教師が迎えに来るでしょう」
視線をヒドリに向けたクルメアは、ヒドリとの間に置かれた長机の側面に触れた。
長机の中央の蓋が二つに割れ、中から青白い光が天井に向かって伸びた。光は前時代の道具であるキーボードのホログラムを、ヒドリの前に作り出した。キーボードの上にはスクリーンを模したホログラムが投影されており、小さな縦線がスクリーンの左上でゆっくりと点滅している。
「あなたを診た医療班の報告によると、あなたの生体情報や社会的情報が記録されているはずのインプラントが焼き壊されていたそうです」
ヒドリの様子をうかがうようにクルメアの目が鋭さを帯びた。少しの間口を閉じ、ヒドリの炎に包まれた頭部を見つめた。
ヒドリは何も考えていなかった。ただ淡々とクルメアの言葉を聞いていた。自分を見つめるクルメアの目をただ見返していた。
「インプラントが残っていれば、その機能を使って声の出せないあなたと対話できたでしょうが、修理するまで無理とのことだったので、こちらのキーボードのホログラムを使った昔ながらの方法を使うこととします」
クルメアは首を少し傾けた。
「どうですか? 何かキーボードで反応してくれませんか?」
少しの間をおいて、自分の行動が求められていることに気づいたヒドリは我に返り、キーボードのキーを不慣れな手つきでゆっくり押した。
ヒドリの対面に座るクルメアは、目の前に表示されているスクリーンに「はい」と文字がタイプされるのを見るとうなずいた。
「良いでしょう。では質問を始めます」
クルメアは背筋を伸ばした。
「あなたのインプラントの破壊は誰によるものですか。事件性の有無を確認したいので、正直に答えてください」
そう言われたヒドリは初めて自分の両手首に埋められた小型の機械に目を向けた。視界に入れて初めて、火傷の痛みを自覚した。心臓の鼓動に合わせてずきずきと痛む手首には、包帯が巻かれていた。しかし何故そうなっているのかは記憶になかった。
ヒドリが首を傾げていると、クルメアが「覚えていないのなら思い出してください」と硬い声で言った。
言われて初めてヒドリは記憶を掘り返し始めた。何故ここに来たのか。このクルメアに補導されたからだ。何故補導されたのか。何故だろう。表世界の表通りに行っただけだ。何故表通りに行ったのか。
じりじりと脳の奥が焼ける音がする。連れ込まれてここに座らされてやっと忘れられたことがあった。それまでそれはずっとまぶたの裏にへばりついて取れず、つきまとっていた。
急にヒドリの身体が震え始めた。ここに来る前に見ていた夢を思い出した。契約の夜からすべてが始まったことを、この肉の削げ落ちた頭蓋に焼き付ける夢だ。起きてからもずっとつきまとってきた夢だ。それまで本能と感情のままに動いていたせいで記憶として意識にとどまっていなかった映像が、ヒドリの脳裏に浮かび上がった。
骨と皮だけになった左手首の包帯を震える右手で触った。この手首を魔法で焼いたときも、同じ動作で行った。ヒドリの生体の異常を告げるアラーム音がひどく煩わしかったのが理由だった。
誰かの声が聞こえる。
「ヒドリを好きなやつなんてまだいるの?」
「悪いけどもう顔を見たくない」
「ヒドリ、食べれなくなったんでしょ? もう食事に誘わないわ」
左隣に誰かが居る気がした。視界の端にかつての自分の髪と同じ色が見えた。
膝の上で自分の左手首を触る右手に目を落とし、ヒドリは動けなくなった。
ヒドリの異変に気付いたそばに立つ部下がうろたえるのを見て、クルメアは立ち上がった。
「大丈夫ですか」
ヒドリは小さく震えながら動かない。医療班を呼ぼうとクルメアは背後の部下を振り返って口を開いた。
クルメアの口から言葉が出る前に、ビル中の床が一斉に青く発光した。炎に包まれた頭蓋を持つヒドリを除くすべての人々の顔が青く照らされ、顔の凹凸の作った影が上に伸びた。ビル内の人々に向けての緊急的な情報がそれぞれの意識に直結したインプラント等の機械に発信されたことを示す光だったが、ヒドリの壊れたインプラントでは床が光ったこと以外には何もわからなかった。
一瞬の静寂の後、ビル内はにわかに騒然とした。廊下をばたばたと走る音が聞こえ始め、続々と部屋に入ってきた部下たちにクルメアは慌ただしく指示を飛ばした。
部屋の中でクルメアと一緒にいた部下たちも廊下に駆けていき、自分も部屋から出ながら、クルメアはソファに座るヒドリに大声をかけた。
「医療班の人を呼んでおきますので、その人の指示に従ってください。勝手な行動はとらないでください」
自動ドアがしまり、うつむくヒドリが取り残された。しばらく部屋の外から靴音や人の声が聞こえていたが、やがて台風が過ぎた後のようにビル内は静かになった。床の発光も終わった。
震えるヒドリは動けなかった。そばでささやく誰かの声は少しずつ増えていた。隣に座る誰かの気配も常にしていた。見覚えのある手足が視界に入っていた。契約の夜を迎えるまで好んで使っていた爪化粧が隣の人物の爪に施されていた。今では細くなり続ける手を見るのが嫌で、それらも荷物の奥にしまって使っていなかった。
何も聞きたくもないし見たくもなかった。ただ小さくなるようにうつむいて、息を殺して震えていた。
自動ドアの開く音が聞こえた。しかし人の気配はしなかった。
何も見たくないと思った。舌や歯茎の消え失せた口で歯を食いしばった。恐ろしかった。大声で叫んで涙を流して嗚咽したかった。恐ろしいことを伝え叫ぶ声も、涙腺も契約の夜に奪われた。何度も何度もこの事実を思い知らされ、感情が声や涙を求めるたびに代償の重さがヒドリを圧死させようとした。
じりじりと火の焼ける音が聞こえた。自分の頭蓋を焼く音ではなかった。ヒドリは顔を上げられなかった。
隣に座る何者かの見覚えのある手が動いた。右手がゆっくりとヒドリの膝に近づくのを見て、ヒドリは震えあがった。かちかちと歯が鳴った。しかしどうしても動けなかった。
健康的な肉付きの右手がヒドリの痩せこけた膝に目と鼻の先まで迫っていた。
ぼん、と何かの爆ぜる音がすぐそばで鳴り、ヒドリは弾かれたように顔を上げた。火の粉が目の前を舞い、燃える炎にあぶられるような熱を身体の左側が覚えた。
ゆっくりと左に目を向けると、ソファの上で炎の柱がまっすぐ天井に向かって立ち上っていた。炎柱の強烈な光は室内の空気を一変させ、室内光を消し飛ばした。視界の隅を火の粉が通り抜けていくのを感じながら、ヒドリは茫然と炎の柱を見上げた。
ヒドリの注意を引いたのを確認するように、炎は少しの間その場で揺れていた。
焦げたソファを残して炎柱が急に姿を消すと、室内の白色寄りの光が戻ってきた。
ヒドリがしげしげとソファの焦げ目を見つめる中、炭火を起こすようにソファの座席部分の焦げ目に火が灯った。ソファに灯った小さな火は通り道を焦がしながらゆっくりと移動し、部屋を横断すると開いたままの自動ドアをくぐったところで停止した。
金属の焼ける良い匂いを感じた。心の安らぎを感じられるような心地良い香りだった。
もっと近くで感じようと、ヒドリは立ち上がった。しかしヒドリが近づくと、火は廊下を進み始めた。
すっかり人気のなくなった廊下で床を焦がし進む小さな火に、ヒドリはついて歩いた。
火とともに自動階段に乗り、鍵の開いていた自動化されていない扉の先には、このビルの屋上があった。
あまり手入れのされていなさそうな、薄汚れた屋上の床を、火が焦がして進んだ。ヒドリもそれについて歩いた。中央で火が止まると、ヒドリはしゃがんで床を焼く火を見下ろした。やはり胸の休まる香りがした。
小さくちろちろと燃える火の中には、鮮やかな赤や橙や黄色が見え隠れし美しかった。見ていると和やかな気分になった。小さな生き物のように動く小さな火を触ろうと、ヒドリは手を伸ばした。火がヒドリの手を焦がすことはなかった。指の間を出入りする火の尾と戯れると癒されるような気がした。
「そんなに気に入ったのならくれてやろう」
人の影が自分の上に落ちているのを感じ、ヒドリは顔を上げた。目の前に立っていたのは、明らかにただの人ではなかった。
屋上の入り口の反対側に並ぶ鉄柵の向こうに、緑を帯びた青色の凍てついた都市の光が見えた。その光を背にしたその怪人の姿には影が落ちていたが、その歪な頭部は、ヒドリの火に照らされて不気味に浮かび上がっていた。
どこに視覚機関があるのかもわからない、奇妙な機械が怪人の首に乗っていた。一つのマシンにどんどん様々な部品を取り付けて肥大化していったようにも見えるその機械には、ところどころ目のような色のついた電球がはまっていた。そこかしこで内部の歯車が露出しており、何のためかもわからないコードがちらちらと見えていた。部品と部品の隙間からときどき赤みを帯びた光が漏れるのも、奇妙だった。
「この被り物を被ることが条件だ」
こつこつとやけに大きく細い手から伸びる人差し指で頭部の機械をつついた。
ヒドリの指とたわむれる小さな火の感触を意識しながら、靄のかかったような頭でじっと怪人の頭を見つめた。
何も反応を示さないヒドリを見て、怪人はかがみこんだ。幼い子どもに対してするように怪人がヒドリと目線を合わせると、ヒドリの目におどろおどろしく奇妙な頭部の細部が映り込んだ。金属につけられた小さなひっかき傷だけでなく、ところどころに彫り込まれた不可思議で小さな絵柄がはっきりと見えた。その絵柄が何を示しているのかはわからなかった。
ヒドリの火によって赤橙色に照らされたその機械の奥から、機械の隙間を縫ってはっきりとした声が漏れ聞こえた。
「つらかっただろう」
暖かさを感じた。水面に一滴の絵の具を垂らしてそれが広がるように、じわりと胸の奥に、心地よい熱が広がった。怪人の手が伸びた。
契約の夜から何一つ入ってくることのできなかった領域だ。ヒドリの頭蓋以外のすべてを燃やし塵にした炎の中に、怪人は躊躇することなく手を入れた。
怪人の手が燃え崩れることはなかった。それがさも当然のことのように怪人は炎の中で手を動かし、ヒドリの頭蓋を触った。かつて頬だったところに怪人は手を添えた。
「解放してやろう」
添えていた怪人の手に力が入り、骨に指をひっかけるようにヒドリの側頭骨から顎骨にかけてを掴んだ。不快感はなかった。何かに顔を触られる感触というのが久しく新鮮だった。
神を見た。
よくわからない自然の神でも邪神でもない。ヒドリを泥の底からすくいあげる力と意志を持つ、人間が元来求め続けてきた類の神だった。
一連の怪人の動作は、「解放してやる」というその言葉に説得力を持たせるのに充分だった。
ヒドリの手が足元の火から離れた。両腕はゆっくりと怪人の頭部に伸び、機械の両側面を掴んだ。
けたたましい音を立てて屋上のドアが吹き飛んだ。ドアだった歪んだ金属板の床を滑る摩擦音が鳴り終わらないうちに、クルメアを先頭として何人かが屋上に走り出た。
上空から降り注ぐ火の粉をものともせずに、クルメアは自分たちを照らす赤橙色の光の光源を見上げた。
「遅すぎた」
誰かが悲痛な声をもらした。
屋上の真ん中にはクルメアの保護したヒドリが背を向けて立っていた。しかし頭部で燃えていた火は消えていた。怪人が被っていたはずの機械がヒドリの頭蓋を覆い、脈動していた。赤橙色の明かりが機械の隙間から漏れ、後頭部にもところどころにある視覚機関のような丸い灯りがじっと屋上に上がってきたクルメアたちを見つめた。
ヒドリの目の前では、十階建てのビルほどもある巨大な炎の壁が、風を受けてうねりながら立ち上っていた。
炎の壁はよく見るとただの炎ではなかった。少しずつ揺れながら、それは二本の腕を持つ巨人の形をとっていた。その形はおおざっぱだったが、徐々に細部が形作られている様子が、すべて炎であるにもかかわらずわかった。
角のようなものが生えだした巨人の頭部にある三対の目が、クルメアたちを見下ろすと口元を笑うようにゆがめた。
クルメアは巨人の目をにらみつけた。部下たちは各々の魔法を起動させ始めた。
「我々に歯向かったことをあなたは後悔することになるでしょう、火の魔神よ」
クルメアの言う『火の魔神』は、ヒドリの被った機械が魔人の火を食らうことで封印され、クルメアたちの組織に従わせられていたらしい。機械は他に火が燃え続ける場所を見つけない限り離れないようプログラムされていたが、同じように燃え続ける火の灯った頭蓋を持つヒドリが現れたことで、魔神は一時的に解放されたようだった。
周囲に多くの損害を出しながらクルメアたちが魔神を鎮圧すると、ヒドリはクルメアたちに監禁された。
「もうあなたは学校には戻れません」
半壊した本部の代わりにクルメアたちが移ってきた別の建物の一室に閉じ込められ、ヒドリはクルメアに告げられた。ヒドリが魔神の解放の鍵となってしまったためらしかったが、ヒドリは特に悲しいとも思わなかった。
ヒドリはあの夜、神を見つけた。自らの神だ。それが存在していること自体が、今のヒドリには大切なことになっていた。
魔法的な処置を施された部屋で一人ぼんやりとしていると、部下を連れたクルメアが部屋にやってきた。
クルメアはヒドリを建物の屋上に連れ出した。転落防止用のフェンスのない屋上は、本来であれば人の立ち入りを禁止しているようだった。
「今日は『魔法使いの夜』です」
ヒドリが屋上に一歩足を踏み入れ、そこに広がる光景を見て立ち止まったのを見て、クルメアが告げた。
蛍のようで火の粉のような小さな光球が、空から屋上に降り注いでいた。光球ははヒドリのそばに降りてくると、意志を持ったかのようにヒドリの周りを動き始めた。
「知ってるでしょうが、今日はあなたのような魔法使いの誕生を祝う日。あなたが特殊な存在とはいえ、一魔法使いとして祝わないわけにはいかないので」
クルメアが口を閉じると、ヒドリは屋上の中央に歩み寄り、周囲に集まる光球を目で追った。クルメアは黙って部下とともにその様子を見ていた。
ヒドリはしゃがみ、神と出会ったときに交換条件としてもらった火を思い起こし、床をなぞった。忘れない温もりが今この場にあったなら、どんなにか心地よかっただろう。
床のタイルとタイルの間をなぞっていると、小さな火がちろちろと隙間から漏れ出た。ヒドリは一瞬動きを止めた。しかしやがて生まれた火を指に絡ませた。
神による祝福を感じた。