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本当の「沖縄の魅力」に迫る歴史探検の旅③【"琉球"のあけぼの】

お待たせしました。さあ、歴史探検の旅は、いよいよ今回から「琉球王国」の時代へと突入していきます。誰しも一度はこの王国の名を耳にしたことがあるでしょう。かつて沖縄に独立国家があったということは、多くの方がすでにご存じかもしれません。しかし、その実像は、単なる一地域の郷土史といった見方ではとても収まらない、壮大な歴史物語。今なお「日本であって日本でない」とも言えるような、ユニークな文化をもつ沖縄の地にかつて誕生した王朝文明もやはり、その先史時代と同様、他に類を見ない、まさに独特の色彩に彩られたものでした。動乱と泰平、繁栄と悲劇が入り混じる激動のドラマが、ここから始まります。

1.「沖縄」と「琉球」

いきなりですが、「沖縄」と「琉球」。みなさんはこの違い、わかりますか?
琉球王朝時代を理解する上で、1つタメになる知識から始めてみましょう。「琉球」は昔の名前で、「沖縄」は明治の廃藩置県以降の名前、だと思ってたりしませんか?(私は勉強するまで完全にそう思ってました…)実はこれ、違うんです。この地の最初の通称は、「沖縄」の方だったんです。正確に言うと、「おきなは」という呼称で、かつては別の漢字が当てられていました。一方「琉球」という名称はというと、やはり琉球王国の建国時に出てきたもので、実は、中国から名付けられたものだったんです。自分たちで決めた名前じゃなかったんですね。大国・明が誕生し、朝貢貿易がスタートするとき「琉球」の名が与えられ、その後も、大国に認められた独立国家として「琉球」の名を誇り高く自称していくこととなりました。名前をもらうきっかけとなったこの朝貢貿易こそ、琉球王国繁栄の礎。まさに王国の歴史が「琉球」という名前に詰まっているわけです。

「琉球」の名が与えられるまでは、「おきなは」が島の呼称でした。この名が初めて歴史に登場するのは、平安時代の「続日本紀」(しょくにほんぎ。797年編纂)にまでさかのぼります。日本から中国・唐に渡った、あの有名な遣唐使に関する一節に出てきます。唐への派遣は十数回にも及んだようですが、かつて唐からの帰国に失敗し、かの鑑真も乗っていたその船が、沖縄の港に流れ着いたことがありました。このとき一行は、現地の人間に土地の名前を聞き、「阿児奈波」島と書き記しました。これは、那覇の港を意味する「沖漁場(おきなは)」が伝わったものだったと考えられています。「ここはどこだ」と問われ、「那覇の港だ」と答えたら、島の汎称だと勘違いされちゃったわけです。しかし、こうしたことが後にも先にも繰り返されたのでしょう。いつしか沖縄の玄関口「おきなは」は、島の名称として使われるようになったのです。(ただし、「おきなは」は沖縄本島だけの呼称でした。「続日本紀」や同時期の「日本書紀」(720年編纂)には、多禰(たね、種子島)、阿麻彌(あまみ、奄美大島)、爾加委(喜界島)、度感(とから、徳之島)、信覚(しがき、石垣島)、球美(くみ、久米島)といった島が登場するので、沖縄列島すべてがまとめられていたのではなく、那覇の港がある沖縄本島だけが「おきなは」だったようです。ちなみに、現在の那覇市の名称も「漁場(なは)」が語源だと言われてるんですよ。)
この面白い説からは、1つの重要な解釈を導くこともできます。異国の人間が玄関口としての港を出入りする時、場所の名前を港名でしか呼ばないということは、その時代、沖縄に国家が形成されていなかったことを意味すると解釈できるのです。8世紀といえば奈良朝から平安期にかけての時代。この頃沖縄ではおそらく農耕も始まっていないので、封建社会も成立していなかったのでしょう。素朴な時代から、多くの来島者がいた様子が想像されますね。

2.一歩ずつ「進化」する社会

生物学や人類学では、環境に合わせて適応していく変化を「進化」と呼びます。より良い方向へ進んでいくというより、単に適応していく過程といったイメージ。沖縄の自然と調和した穏やかな時代は終わり、ついに農耕の始まりで社会が変革されると、それに合わせて人々の暮らしもまさに「進化」していきました。こうして激動の時代が幕を開けるのは12世紀ごろ。数家族で集う素朴で平等な人間集団は、次第に組織化され、生産効率が向上し余剰が生まれ始めると、余剰を管理し組織を管理するリーダーが誕生します。同時に、こうして大きくなった集団は互いに争う構造も生みます。所有する土地を守り、生産物を守り、仲間たちを守るために争い続ける社会へと変貌していくわけです。

考古学の分析によると、狩猟採集の生活スタイルにはステップがあるようです。「バンド的社会」という遊牧のような自由な形式から、徐々にメインの居住地を構えて離散集合するような少し複雑な形式への「進化」があるといいます。しかし、農耕を始める前はこの程度の変化しかありませんでした。メインキャンプを構える形式からさらに組織化され、一部の人間が統率者として権力を集中する「進化」も十分あり得るはずが、農耕前の沖縄ではこれがなかなか発生せず、素朴な小集団のままだったといいます。「貝の道」で知られる沖縄列島と本土との交易は2~3世紀ごろから行われていて、そこでは交易のためにある程度集団が組織化される必要はあったものの、封建制度につながるような大きな集団へと「進化」することはありませんでした。詳しい理由を確かめることはできませんが、私が想像するに、自然との調和を大切にする先人たちは、あえて農耕を拒んだように、あえて1人のリーダーに従うような偏った秩序を嫌い、むしろ多くの小集団が存在する社会を、主体的に選択したのではないか、と思ってみたくなります。

―ところが。
農耕の開始で時代は一気に変化しました。集団が膨張し、争いが激しさを増すことは必然でした。この頃を詳細に伝える資料はありませんが、各地の豪族たちは勇んで競い合い、激しい時代が到来したことは間違いありません。

3.神話で語られる「琉球」のあけぼの

琉球の時代を語るのに欠かせないのが、1650年に天才政治家・羽地朝秀が編集した王国公式の歴史書「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」です。そして並んで重宝されるのは、琉球の万葉集ともいうべき「おもろさうし(おもろそうし)」。13~17世紀の約400年間に詠まれた詩歌を1500首以上も収録した超大作です。この他、中山世鑑の増補版「中山世譜(ちゅうざんせいふ)」や、これまた琉球政府が編纂した正史「球陽(きゅうよう)」・地誌「琉球国由来記」、本土から渡ってきた僧侶による「琉球神道記」といった書物も残されています。加えて、本土や中国に残る文献での記述も合わせて分析することで、歴史が紐解かれていくのです。
素朴な小集団生活から国家が誕生するまでの様子を知るには、こうした文献に頼ることとなりますが、実は、その数はかなり乏しいと言われています。ご紹介した文献では、沖縄の歴史を神話で語っているものが多く、史実を物語ってくれる資料が実は少ないというのです。いろんな資料をいろんな角度から分析できて初めて実際の様子が浮かび上がってくるわけで、実際はまだまだわからないことだらけといっても過言ではないようです。

神話的な表現をまずは素直にご紹介してみましょう。琉球王国が生まれるまで、沖縄ではどのようなことが起こったのでしょうか。
文献ではまず、天の神がアマミク・シネリクという神を呼び、最初に島を造らせ、次に人を造らせた、1人目が治世の主となり、2人目が神女ノロとなり、3人目が民となった、といいます。さらには、沖縄の地を最初に治めた「天孫(てんそん)氏」はこの1人目の直系で、25代にもわたって治世が続いたといいます。ところが、名もない25代目は臣下に殺害され王位を奪われます。ここで現れるのが源為朝の子「舜天(しゅんてん)」です。この非凡な勇者が見事に逆賊を攻め、世に推されて次の国王となるのです。舜天王統は3代目「義本(ぎほん)」まで続きますが、流行した飢饉や疫病を自らの徳の無さとし、今度は太陽の子として神秘的に誕生する「英祖(えいそ)」に王位を譲ります。英祖王統では5代目「西威(せいい)」まで続きますが、傲慢な王母による社会の荒廃を止められず、今度は天女の子というこれまた神秘的な生まれの「察度(さっと)」に王位が渡り、英祖王統は滅びました。

とりあえずここまでが、およそ琉球王国誕生前夜までの話。ほとんどが神話ですが、史実を掴む文献が他になく、詳しい社会情勢を知ることができないのが実情です。しかし、察度王統に至ってようやく史実を見出す記録が登場します。「明実録」という明王朝の歴史をまとめた正史に「中山王察度」が出てくるのです。信頼をもって歴史的実在が確認できる最初の人物は「察度」でした。これが何の記録かと言えば、沖縄が初めて明との朝貢貿易をスタートした記録だったのです。

4.王国誕生の真実

察度の時代から冊封体制がスタートしたことにより、中国側にも琉球の記述が増えていきます。「中山世鑑」など琉球政府公式のストーリーは、史実を忠実に再現するよりも、王府の思想を普及させることが第一目的となるので、どうしても思想的・神話的な記述となりがちです。一方、中国から見た琉球の記述は、恣意的に表現する必要性が幾分減るので、その分史実にも近くなり信頼性が増すのです。
「中山世鑑」など正史で語られるストーリーを基本としながらも、すぐに鵜吞みにしない上手なスタンスで、私たちも王国誕生の歴史を追いかけてみましょう。

正史では、「察度」が英祖王統5代目「西威」より王位を引き継ぐ前の前、酒色に溺れ政治を怠った英祖王統4代目「玉城(たまぐすく)」の代に、南部に「山南王」、北部に「山北王」がそれぞれ勢力を築き、中央国家が「中山」となって国が三分したとされます。しかしこれ、事実とは異なるだろうと言われているのです。「天孫氏」→「舜天」王統→「英祖」王統による国家があたかも存在し、途中で三山に分裂したような形ですが、これは、創造神アマミク・シネリクが沖縄を創ったころから王朝が連綿と存在していたことを流布するのが目的で、実際には各地で成長した豪族が次第に3つの勢力にまとまっていったのだろうという解釈です。農耕社会が集団の組織化、リーダーの誕生につながり、争いを重ねながら徐々に勢力を増した豪族は、ついに3つにまで集約されたというわけです。
この頃を正確に伝える資料がないのでわからないのですが…仮に正史が事実でないとしても、庶民がこれを信じなければ意味がないので、おそらく内容構成には豊かなイマジネーションと細心の注意が払われていただろうとも想像できます。つまり、全くすべてが嘘だという捉え方もできないかもしれないということです。100%完全にフィクションなのか、それとも実在の人物を脚色したのか。わからないからこそ、想像力を掻き立てられますよね…。

勢力が3つに集約された「三山鼎立」時代。このころ中国大陸で、大きな歴史の転換点が訪れます。太祖洪武帝による明の建国です。元を滅ぼし、大陸を平定した洪武帝は、国内の改革を断行し中央集権化を図るとともに、外交では、交易の国家管理を強化しました。認められた国家以外の貿易を厳しく排除するとともに、中国人の自由な交易を禁ずる海禁政策をとったのです。認められた国家だけが貿易による巨大な恩恵を受けられるようになり、琉球王国もそのチャンスをしっかりと掴んだのです。
朝貢貿易をするためには、明の皇帝に服することを誓い、皇帝から臣下の国王として認めてもらう「冊封(さくほう、さっぽう)」が必要でした。明の記録によると、初めて「冊封」を受けたのは「中山王察度」。実は、1372年のこの時、沖縄はまだ三山鼎立時代で統一国家ではありませんでした。さらには、中山王が明に入貢したことを知った南山と北山もまた「山南王」「山北王」として冊封を受け、小さな沖縄から3人の王が入貢する形でスタートしたのでした。

最初に冊封に成功した最大勢力・中山でしたが、2代目「武寧(ぶねい)」の代、佐敷から立身した「尚巴志(しょうはし)」に倒され、父「尚思紹(しょうししょう)」が王位に就きます。正史では、「武寧」による極悪非道の治世で乱れた世を立て直すため、1406年「尚巴志」がこれを打倒したとされていますが、おそらく単純に勢力同士の抗争の末、政権交代が起こったものと考えられています。
明に入貢後も、争いの世になかなか決着がつかず、皇帝からも「いい加減仲良くしろ」と度々叱られていた沖縄でしたが、新たな中山王となった尚氏がこの後、破竹の快進撃で勢力を伸ばします。1416年、まず北山と相まみえ「山北王」が滅亡。1421年には父「尚思紹」の死去によりついに「尚巴志」が王位に就くと、1429年山南の滅亡を達成。ここに初めて三山統一が成し遂げられ、翌1430年にはついに琉球王国として進貢するに至りました。尚氏が中山の頂点に立ってわずか20年後、「中山王察度」の初入貢から数えると約50年後の王朝誕生でした。

5.新しい王朝の建設と試練

ついに誕生した琉球王朝。創始者「尚巴志」は、王府として首里城を大規模に整備するとともに、中国とのつながりを特に大切にし、統一政権による安定した秩序の構築に努めました。三山統一のだいぶ前からすでに存在していた首里城ですが、この時本殿はじめ全体が大規模に新築され、「龍潭池」「安国山」など壮麗たる外苑の整備も合わせて行われました。
琉球初の国王は、統一を成し遂げた時すでに年齢57歳に達していました。現在よりもだいぶ平均年齢が低い時代に、さらに10年の晩年期を全うし、1439年、67歳でその生涯を閉じます。長い長い戦乱の世を平定し、琉球統一の大事業を初めて成し遂げた稀代の風雲児。その絶大な影響力のため、王の死去に国中が悲しみに明け暮れたと語られています。

「尚巴志」の死去で王位は次男「尚忠(しょうちゅう)」に継承されます。見事に誕生した王朝は次第に繁栄し、世はついに泰平を迎え…
―とはいきませんでした。偉大な建国の父亡き後、王朝は安定する間もなく、多くの試練に直面してしまうのです。2代目「尚忠」から7代目「尚徳(しょうとく)」まで在位期間は平均6年。不安定な情勢の中、国家を揺るがす事件も度々発生しました。
4代目「尚金福(しょうきんぷく)」崩御後に起こった世子・志魯(しろ)と弟・布里(ふり)による後継争い「志魯・布里の乱」(1453年)では、互いに兵を差し向け、首里城を焼失した挙句、両者とも戦死する始末。結局、前王の弟「尚泰久(しょうたいきゅう)」が王位に就きました。
その「尚泰久」時代にも大きな事件が発生します。1458年に起こった「護佐丸(ごさまる)・阿麻和利(あまわり)の乱」です。勝連で一大勢力を築いた「阿麻和利」は、王位を手中に収めるべく野心を抱く中、その障壁となる、勝連に睨みをきかせる中城の「護佐丸」打倒を企てます。一計を案じた「阿麻和利」は「護佐丸に謀反の動きあり」と虚言によって国王をそそのかし、王府に「護佐丸」を攻めさせたのです。見事に成功しますが、王府打倒の計画はバレてしまい、慌てて「阿麻和利」は王府と対決しますが、あえなく敗戦に終わってしまうのでした。

紹介した2つの事件とも、何より王朝の権力がまだ不安定であったことを示しています。王の在位も安定しない中、何とか政権を保っているといった調子の琉球王朝でしたが、ついに王位を奪われる重大事に見舞われてしまいます。伊是名出身の有力者「金丸(かなまる)」登場です。出自や経歴はこれまた神話的に正史に語られていますが、要するに、有能であった「金丸」は時の王「尚泰久」に見出され重役に任じられる信頼を集める一方、後を継いだ「尚徳」王の傲慢な政治に耐えかねた臣下たちは、ついに立ち上がりクーデターを起こして「金丸」を王に推戴した、といいます。事実としては、おそらく単純に「金丸」のクーデターにより政権が転覆したのだろうという見方が有力です。
中国との朝貢関係が何より重視される琉球の政治では、「金丸」の政権奪還事実も中国には穏やかに認めてもらう必要がありました。そこで「金丸」は打倒した尚氏の姓をそのまま名乗り、「尚円(しょうえん)」として「冊封」を受け新たに王位に就きました。同じ尚氏ではありますが、実態は完全に異なる王統の誕生となるので、現代では、「尚思紹」や「尚巴志」から始まり打倒された「尚徳」までを「第一尚氏王統」、「尚円」以降を「第二尚氏王統」と区別して呼称しています。第一尚氏王統は不安定なまま30年という短い期間で、あっけなく幕を閉じてしまったのでした。

6.絶頂を迎える第二尚氏王統期

建国初期はすべてが順風満帆に…とはいきませんでしたが、1470年、伊是名出身の「金丸」が「尚円」として王位を奪って第二尚氏王統が始まると、王朝は国家としての基盤をここから一気に整えていきます。特に、「尚円」の息子「尚真」が三代目として治めた時期から琉球は目覚ましい発展を遂げ、この頃から、いわゆる多くの人がイメージする琉球王朝の華やかな世界が登場します。中国との朝貢貿易を中心とした東アジアでの広大な経済活動も順調に進めながら、国家運営が軌道に乗ってくると、国内の政策にも注力することができたわけです。その結果として「尚真」の在位期間は50年を数え、歴代王朝の中でも最長を記録することとなりました。多くの事業を成し遂げ、栄華を極めた尚真王期50年と、それ以降の栄光の軌跡を俯瞰してみましょう。

「尚真王期」にはこれまで1つしかなかった碑文(石碑)が大量に建立され、琉球の万葉集「おもろさうし」でも「尚真」が最も多く登場することからも、この時期の繁栄を伺い知ることができます。碑文には多くの功績とともに、王の徳の高さや王朝の繁栄ぶりが強調されています。尚真王期に実を結んだ事業をいくつか列挙すると…

  • 「円覚寺」の建設と仏教の奨励

  • 朝鮮国王より贈られた貴重な経典を守る堂(後の「弁財天堂」)と「円鑑池」の整備

  • 創設者「尚円」以下王統を祀る「玉御殿(たまうどぅん)」の建設

  • 琉球固有の信仰を保護するための「園比屋武御獄(そのひやんうたき)」、「弁の御獄(べんのうたき)」など格式ある拝所に石門を造営

  • 王宮から豊見城の真玉橋に至る大規模な「真玉道(まだんみち)」建設

これら主なインフラ事業を挙げただけでも尚真王期の功績が特筆すべきものであることは理解できると思います。しかし、インフラ整備とは別に、国家運営に欠かせない非常に重要な事業をいくつも成し遂げていきます。今の私たち沖縄のアイデンティティにもつながる、琉球の歴史の礎を築いた「尚真」の歴史的事業を紹介していきましょう。

まずは、宮古・八重山地方の平定です。
王朝形成が進んでいった15世紀、宮古地域、八重山地域でもそれぞれ、全体を統率する有力者が現れ始めました。尚真王期には、宮古地方を治める「仲宗根豊見親(なかそねとぅいみゃー)」、八重山地方を治める「アカハチ・ボンガワラ」が台頭していましたが、ついに王府から各地方へ権力の手が及びます。正史「球陽」では少々伝説めいた語り口になりますが、宮古地方は王府に従い、反抗した八重山地方の平定に力を貸したとされています。詳細を語る資料はありませんが、とにかく尚真王期には、独立して治められていた宮古・八重山地方が、琉球王朝の一部に正式に組み入れられたのでした。
この宮古・八重山平定は、単に権力の範囲が広がったと表現するだけでは足りません。陸続きではない離島を併合することは、非常に困難でエネルギーのかかる大事業です。武力で抑えた後も、これを従わせるには強い権力が必要になります。王朝内の治安が維持されて初めて、離島平定の大事業が成せるのです。

宮古・八重山併合を支えたともいえる国内治安維持の最たる施策が、各地「按司(あじ)」の首里集居策です。各地に割拠する実力者「按司」たちを統率するため、彼らをゆかりある地元から離し、目の行き届く王宮付近に住まわせることで反権力の形成を阻止するとともに、王府に雇われる公務員である「按司掟(あじおきて)」を代わりに各地に派遣し、王府が直接地方を治める中央集権体制を確立しました。
実はこれ、正史「球陽」などには記述がなかったりするそうです。中央集権国家として根幹をなすこの大事業がなぜ、正式な歴史書に記載されないのか―。おそらく、権力闘争の要となったこの施策は、簡単ではなかったはず。表にも裏にも、様々な抗争が繰り広げられたに違いありません。そもそも、第二尚氏王統自身が、地方実力者によるクーデターによるもの。その顛末を知る当事者「尚円」の息子「尚真」は、王朝権力を安定させるためのこの大事業に、非常に多くの神経と労力を割いたはずです。琉球王朝という国家の建設が、こうした苦難を基盤にして成り立ち、中国との貿易や、宮古・八重山の併合や、国内文化の発展につながっていることを忘れてはなりません。

権力の大きくなった王府組織も発展を遂げていきます。官僚制の登場です。「位階制・職制」とも表現されます。歴史的に群を抜いて優れた官僚制を開発してきた中国という見本がお隣にいるわけですから、琉球の政府組織ももちろんこれを見習って整備されました。王府に雇われる官僚たちは明確に序列化され、そのランキングは冠(帽子)や服装の色やデザインで可視化されました。これは、按司の首里集居と同じく、国家権力を集中させる仕組みであって、そう簡単に機能するものではありません。表では官僚制でも、裏でその官僚たちが派閥を作って権力を握れば、当然うまくいかないわけです。こうした官僚制が機能するには、国王の絶対的な権力形成と、官僚たちの権力がうまく分散する仕組みが必須なのです。
8世紀に同じ思想で中国に見習った日本も、「律令国家」として中央集権体制の構築を目指しましたが、各地で武力を盾に実力をつけた「武家」たちの台頭でついに崩壊していった歴史があります。思えば、目の行き届きにくい離島を多く抱えた琉球が、中央集権を達成し数百年に及んでその統治に成功したという事実は、実は、目を見張るべき歴史だと言えるわけです。

官僚制と合わせて整備された、琉球らしい独自の制度というのが「神女組織」です。「ユタ」といえば沖縄ではなじみ深い存在。神や先祖の霊と交信する力を持った霊力の高い女性を指しますが、現在でも沖縄独特の信仰文化として根付いています。琉球王朝時代には、そんな霊力を持った女性を官僚制のように組織化したというのだからとても面白いですよね。しかし、これは現在の常識から考えるとイメージしにくいだけで、ある特定の宗教観に基づき霊力をもって統治する(宗教的権威が統治の重要なツールになる)ような「シャーマニズム」は、日本や中国はじめ、世界のあらゆる地域にみられるものなのです。琉球では、「聞得大君(きこえおおきみ)」を頂点とし、上から「三十三君(さんじゅうさんくん)」、「大阿母(おおあも)」、「ノロ」という各階級に整理され、身分の高い女性の中から国王が任命する形で代々選ばれていきました。17世紀ごろまでには形骸化、弱体化してしまいますが、地方では存在感を発揮し続けて、今なお土着信仰としてわずかながらも生き続けているのです。

以上、紹介した重要な大事業を次々に打ち立てていくことによって、王朝としての骨格が形作られ、「尚真」以降、琉球は栄光の時代を築いていくことができました。みなさんが最もイメージする琉球王朝の華やかな時代が訪れるまでには、島嶼国家としての並々ならぬ努力があって成し遂げられた成果だったのです。

7.栄華極めた王朝に落ちる「影」

光あれば、影あり。
血のにじむ努力で作り上げた栄光の国家にも、その裏にはいくつかの闇がありました。琉球の華やかなイメージの裏に隠れた、歴史の真実も合わせてご紹介することにしましょう。

これまで、繫栄した王朝の歩みを見てきましたが、そもそも、その時代に暮らす一般庶民は一体どのような生活を送っていたのでしょうか。
実は、これを知る手掛かりはほとんど残されていないと言います。「おもろさうし」や数々の正史も、国王や神女などの高貴な存在は表現していても、一般庶民の暮らしには全く触れていないというのです。しかし、庶民の生活ぶりを書き残した記録はわずかに発見されていて、そこからなんとなく推測することはできます。例えば朝鮮人が漂流して八重山に流れ着いたときに書き残した内容を見ると、それはまあ、耳を疑ってしまうほど質素で貧しい様子が表現されています。裸足で歩き、便所が無く野外で用を足し、陶磁器や鉄器もほぼ無く数日で壊れそうな土器を使っていて、夜の明かりは粗悪な松明のみ。衣食住それぞれ非常に粗末で、漢字を理解できる人間はほとんどいなかったと言います。すでに琉球の一部であっととは言え、離島住民の貧しさが生々しく残されているのです。
琉球王朝が国家として整備した仕組みは、支配される住民から見れば、国家支配の枠に押し込められ、搾取の対象として明確に位置付けられることも同時に意味します。国王を頂点とする支配階級は、その秩序の下、身分に応じた恩恵を受けられますが、被支配階級としての一般庶民は、これまた身分に応じた苦役に耐えなければならないわけです。強力に機能した租税・賦役制度や、わずかに残る庶民生活の記録から推測できるのは、華やかな王朝の陰に隠れた、庶民の苦しい生活です。記録がほとんど残らない、王朝を支えた身近な住民の生活にこそ、思いを馳せるのも琉球の歴史の面白さではないでしょうか。

栄華を極めた「尚真王期」ですが、王朝内でも実は、奇妙な事件が起きていました。第二尚氏王統の創始者「尚円」の妻で、「尚真」の生みの母、「オギヤカ」が絡む2つの珍事です。
1つは「尚宣威退位事件」。偉大な「尚円」の死後、二代目は息子「尚真」がまだ11歳だったため、弟(「尚真」にとっては叔父)の「尚宣威(しょうせんい)」が継承しましたが、なんとこれがたった7か月で幕を閉じ、三代目「尚真」に継ぐというドタバタ劇が起こってしまいます。正史では、神女たちが王位継承を祝う儀式の最中、縁起の悪いとされる振る舞いを披露した上、「尚真」が王にふさわしいと言わんばかりの詩を謡いあげ、これを見た当の「尚宣威」が自らの徳の無さを悟り、すぐさま王位を譲ったとされています。そもそもこの記録が信用できないこともありますが、確かに7か月で退位したことは不思議でなりません。史実を伝える記録がないため、本当のところはよくわからないとされています。
2つ目が、「尚維衡追放事件」です。「尚真」は王家の墓として「玉御殿」を造営しましたが、その前には有名な石碑が一緒に建てられています。実はこの石碑、よく読むととても奇妙なんです。1人1人、誰がこのお墓に入るかを具体名を列挙した上で、これに背く人あらば天に仰ぎ地に伏して祟るべし!と強烈に言い放っているのです。さらには、その1人1人の名前を見てみると、「尚円」と妻の「オギヤカ」、「尚真」を含むその両親の子供たち、そして、「尚真」の子供たち(尚円・オギヤカにとっての孫たち)が列挙されているのですが、「尚真」の子供である「尚維衡」が除かれているのです。「尚維衡」の母と言えば、「尚宣威」の娘「居仁」で、やはり「尚宣威」の血筋が被害にあっている状況です。これも不思議でたまらない事件ですが、なぜこのようなことが起きたかは、確かめられるものが無いようです。

この2つの事件、実は、証拠はないとは言え、多くの歴史家が1人の犯人を疑っています。それが何と「尚真」の母「オギヤカ」なのです。「オギヤカ」は様々な記録から、権力をほしいままにし、大量の部下を引き連れて豪華絢爛な生活を送っていたことが残されています。創始者「尚円」が50歳にして娶った美しすぎる20歳の「オギヤカ」は、「尚真」を生み、王朝内での王位継承に影響を及ぼしたのではないか、という推理したくなるわけです。3人目とはいえ、王の妻であれば神女組織に影響を与えることも考えられるし、「玉御殿」の碑文も「オギヤカ」の強い圧力によって定められた、と考えれば辻褄が合ってしまうのです。「尚真」を王位に就けるべく、二代目「尚宣威」を神女組織を操ることで達成し、その上「玉御殿」から「尚宣威」の血筋を追放して権力を固めようとした、というわけです。
もちろんこれには証拠がありませんので、憶測で話してもしょうがないと歴史家は言いますが、これも1つの歴史の面白みだと思って味わってみてもいいのではないでしょうか。


いかがでしたでしょうか?
琉球王朝が誕生するまで、そして紆余曲折を経て、ついに栄光の時代を掴み取るまでを一気にご紹介しました。だいぶ要点を絞ったつもりですが、かなりのボリュームになってしまいました…。しかし、先史時代から琉球の時代への変遷が楽しめたのではないでしょうか。

しかし、琉球の神髄は、まだまだこれから。
王朝を打ち立てるまでの国内の動きを中心にここまで見てきましたが、本当に面白いのは、海洋国家・琉球のうねりを、「世界史」の視点から大きく捉えるところにこそあるのです。次回は、アジア屈指の「海の王国」としての琉球に迫っていきます。どうぞ次回もご期待ください♪

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