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何もかも、みな むなしい

Shogoです。

私が思うに…

働くことだったり、趣味に没頭したり、

子育てをしたり、夢を追いかけたり…

といった全ての盲目的行為は、ある意味「逃げ」である。


皆本当は恐れているのではないか?

立ち止まることを。

我に返ることを。


何も考えなくて済むからといって

仕事して酒飲んでテレビ見て寝る、みたいなループをしていては…

まさに、マトリックスの住人。


素の自分、つまりカラッポの自分と向き合うという

絶望的な行為から逃げ続けていると

いずれ、否応なしに真の自己と向き合わざるを得なくなる。


人間は制約があった方が実は楽に生きられる。

明日の予定が何も決まっていない、

明後日も、その次の日も 何も予定が無い、

そんな状況に普通は耐えられないのだ。


問題は、自分自身が自分に課している制約に

普段は中々気付けないという点にある。


本当は、全く違う生き方を

明日からでも始めることが出来るはずだ。

でも、それをやらないとしたら それは何故だろう?

本当にやりたいことなんて、

本当に行きたいところなんて、

実はそんなもの無いということに

本当は気づいているからだ。


自分の欲望だと思っていたもの(業)

の正体とは、多くの場合は親の業である。

そして親の業は、そのまた親の業。


やり残したことを子に託す。

自由に生きろ、なんて言ったところで

子は結局のところ親のコピーにしか過ぎない。


では、その原点

究極の最初の一人が背負ってしまった業とは何なのか。

ここまでいくと、宗教じみた話になってしまうが…。


どんなに欲望を満たしたところで、

それは海水をすすっているようなもの。

渇望はより強大な渇望を呼び、やがては廃人となる。


何か違うことをやっているように思えて、

実際は狂気的な無限ループを繰り返しているだけではないか?

それこそ何億年も同じようなシミュレーションを。


この世には何億もの人間がいるらしいが

それだけの人間が苦悩して無数のパターンを模索し、

その試行錯誤の果てに、

答えらしきものを見出せたのかと。


みんなスマホ中毒は気にするのに、

目の前に映し出された映像が

そもそも偽りの虚像であるという点には

何故か無関心だ。


人生そのものが言うなら究極のスマホ画面のようなものだ。

見るのをやめるには目を閉じるか、

眠りにつくか、死ぬ他ない。

でも、実は方法が他に無いこともない。

目の前の映像を見つつも、それがスマホ画面であると

認識したうえで生活するのだ。


電車でスマホを見ている人々を見て、

哀れんでいる自分…さえも客観的に観測する。

ガラスに映った「自分らしき人物」を観察せよ。


何かがおかしい。

その違和感に気付けるかどうか…。


人間は何重ものフィルターを通して現実を認識している。

そのフィルターを一枚ずつ剝がしていく作業が必要。

本当は「現象」にも「事象」にも名前など付いていない。


全て後付けなのである。


自分が自分だと思っている肉体は、本当の自分ではない。

ただの肉の器。


肉の器が欲しているものと、

魂が欲しているものを見極めよ。

我々は遺伝子の操り人形でしかないのか?


今、この記事を読んでいるのは誰だ?

脳か?

心か?

遺伝子か?


遺伝子の操り人形と言ったが、

そもそも遺伝子の方が自分の本体だとしたら?

DNAは、化石のような形態においては

数十万年もの間データを完全に保持できるそうだ。


肉体の役割は、何億年と受け継いできた「情報」

を次の世代の肉体に「引き継ぐ」ためのものだ。

この人生で得た情報も、DNAに新たに上書き保存される。


生命体の目的は一貫している。

ズバリそれは「情報収集」という事に尽きる。

何故それを何億年もシミュレーションして蓄積するのか。


赤ん坊は生まれた時から、生殖する本能を備えている。

ということは最初から知っているのだ。

この世に真の意味において童貞も処女も存在しない。


当然、「もういいかな」と思った生命体が過去に居たなら

とうに絶滅している。

だから今生きてるのは「生きたがり」ばかりというわけだ。


いや、正確には「知りたがり」とでも言うべきか。

「知る」には「時間」が必要。

エントロピーが増大するシミュレーション世界において、

その時間に逆行するための仕組みが生殖である。


実際のところ

子供を作るという行為、遺伝子の複製を造って延命させることは、

時間を逆再生しているようなものである。


親が過ごした時間を追体験しているようなものだ。

時間は未来から過去に向かって進行しているというのは

的を射ている。


結果、冒頭のタイトルに至る。

というわけである。


これは本当に俺の言葉だろうか。

俺の遺伝子の言葉、否

「我ら生命体の総意」とでもいうべき、

幾星霜の溜息といった風情を感じないだろうか。笑


何億年もの追求の果てにあったものが、

俺の人生であったのなら、そりゃ溜息も出よう。

何億年の集大成で、この記事を書かれてもな。

遺伝子のコレクターズ精神に限度というものは無いらしい。


未だ観てない絵面を記録するまでは、

この遺伝子が納得するまでは、

この肉体には役立ってもらわねばならん。


むなしくも、続けることに

何故と問うこともまた、むなしい。


アカシックレコード盤を最終的に聴く奴は誰なんだろう?

そんなもん聴いて何を思うのだろう。


そんなことを考えることもまた、

これが中々どうして…。


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