明の4「解離」(12)

 香山に会うべく乗った電車内で気づいたのだが、私を尾行する男がいた。あのジムでよく見るスキンヘッドの巨漢であった。電車の人混みの中で、彼の首の太さが際立って分かった。警察か、同業者か。どちらの場合であってもひどく面倒に思われる。警察であれば、よほど手荒な真似はしないだろうが、捕まれば銃刀法違反で逮捕される。同業者であれば、そこには金が発生する事案があるわけで、ちょっとやそっとのことでは私の追跡をやめることはないだろう。それにどんな手を使ってくるか知れたものではないし、むやみやたらと接近することも得策ではない。だが、果たして人目に付くところで、やすやすと乱暴することなどあるのか?
 ナイフと銃が露見することを恐れ、私は電車のドアの窓側に正面を向けて立っていた。
「あの、ジムの方ですよね」
「次の、次の駅で降りるんだ」
 考えているうちに私は、彼の前に立ち、話しかけてしまっていた。検証をしながら結論を出さずに、聳え立つ山脈を下る上流の水に身を任せるように行動するのは、私の悪い癖だった。座席に座りながらそう命令する彼に、私はやすやすと従うことにした。彼の頭は私よりも下にあるはずなのに、体内から発生した威圧が私の全身を突きさしていたのは、彼の洗練された魂じみたものを感じさせた。
 私は、自身の死を怖れたことがない。痛みなどにはたいそう鈍感であった。小学生の時、「車に轢かれてみろよ、二千円やるから」と言われた。それが冗談半分のからかいであることを全く認識せず、二千円という金額のみが頭にあった私は、本当にその場で車に轢かれにいった。その頃私は、頭が悪かったことが幸福して、車が十分に近づいてから車道に飛び込む、などということは思いつかなかった。運転手はブレーキをうまく踏んで、私は両足骨折のみで済んだ。後日二千円を徴収しようかと思ったが、その友人が転校したこと病室で聞かされた。非常につまらなくて、役に立たない奴だと思った。
 指定された室見駅から降りると、私は彼に連れられて人気のない室見川を渡る橋の下へ向かった。そこに到着するやいなや、彼は私につかみかかろうとした。彼は私に殺意を向けているらしかった。だが、彼が私に向けた殺意より、この男が自分を殺せると思っていることが無性に腹立たしく思えた。
 そこで、彼に私を殺させないことでこの男から屈辱や憎悪を引き出してやろうと思ったのだ。そうして、私は彼の意思をへし折ってやるつもりなったのだ。
 横に身をそらして彼の突進を回避した私は、懐のナイフで彼の脇腹を突いた。私は確実に肉を突き刺す感触を得た。ところが驚いたことに、男は勢いを緩めずに私を蹴ったのだ。バランスを崩して思わずしりもちをつく。ナイフを確認した。私はまだ右手に握っているし、しっかり彼の血がついている。刺さったはずだし、血の色は赤い。彼は私と同じ人間のはずなのに、ナイフの一突きでは動じないのであるなら、どうすれば私は彼を殺せるのか? 当初の目論見では彼がひるんだ隙に逃走するつもりであったが、あろうことか自分に隙が生まれ、私は逃走とは別の道を見出そうとしていた。
 彼が私に乗っかかり、雄たけびを上げながら何か得体の知れない、拳ではないもので私の顔を二発打った。何で殴られたのか、確認しようと彼の手を見ると、そこには固く握られた拳しかなかった。目を疑ったが、やはりそこには拳しかなかった。今まで数々の拳を食らってきたが、この二発の規模の衝撃は生来経験したことのないものであった。私は口の中を切り、右側の歯が抜け落ちた。私が耳にした雄たけびは決して大げさなものではなかった。彼の強打に、非常にふさわしいものであった。
 私は彼の脇腹をもう一度刺した。彼が私の顔面を素早く三発打った。歯がまた一本抜けた。もう一度刺すと、彼がようやく痛みにこらえ切れずに地面を転がった。苦しみながらも彼は、怪しい白い光をまなこからこちらへ放っていた。
 白い光は、彼の強靭さを表していた。それは私の胸に深刻な傷を与えた。私は、彼が自分の上にのしかかったときでさえ死を怖れなかった点について自画自賛してしまうが、自分の能力では及ばぬ存在を認めようとしていたのだ。人の痛みなんぞに目もくれず生きてきた私は、誰よりも人の命を奪うことには適正であるはずである。それなのに彼を殺せなければ、生まれた環境や、容姿などではなく、自身の生業への誇示が根拠を失いそうになるのを感じると、『なんとしてもこの男を殺さねばならない』、と考えた。香山にはとやかく言われるかもしれぬが、この際そんな問題は矮小だった。彼を殺さねば、私のこの認識が誤りであることの証明にはならない。
 もはや私は衝動的殺意をもって彼の首に狙いを定めていた。
 そしてそれを引き戻したのが、強烈なまでの無力感であった。私は改めて彼の首の太さを目前にし、極限の意識の中で樹齢数千年の樹木を見たのだ。それは太陽に照らされながらもその太陽に威厳を明確なものとし、現実の世界に君臨する長寿の怪物であった。小鳥や水すらもその存在を怖れ、自然の事物としては全くあり得ぬ成長が、この私の脳を駆け巡った。大樹は、私に何の興味も持たず、ただのか細いマッチとして私は佇む羽目になったのだ。私には、絶対にこの首にナイフを当てることができない……。
 私は、電車の座席に腰をおろしているところで自我を取り戻した。ナイフや、拳銃はまだ身に着けていた。しかし、先ほどのもみ合いで落としてしまったのかairpodsのみが見当たらなかった。それでも、口の中や、頬の痛みではなく、あの首からなる恐怖で私は震えを抑えることができなかった。全身を走る悪寒は、香山と待ち合わせた駅で降りるまで全身を駆け回っていた。

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