2025新年ー浄土真宗に喪中はありませんー
2024/25の年末年始は実家に帰らず、CDJ24/25に参戦。
Chilli Beans.、ずとまよ、New Jeans、サンボマスター、Wurts、離婚伝説、Kroiを観ながら年越し。
贅沢なカウントダウンでした。
三が日は特に予定もなく、お正月らしくテレビを観ながら、だらだらと過ごしてました。
皆さんはどんなお正月を過ごされましたか?
年賀状の数も少なくなり(僕はもう送っていないのですが)、
代わりにLINEやメールで新年の挨拶をすることが多くなりましたね。
ある友人に「あけおめ〜」と挨拶すると、
「今年もよろしくー」との返事。
聞けば友人は、昨年身内が亡くなったとのことで、
「あけましておめでとう」は言わず、
「今年もよろしく」とだけ挨拶しているとのこと。
なるほど。喪中であっても「今年もよろしく」は言えるのか、
と心の中で思いつつ、同時に浄土真宗では喪中はないことを伝えようとしました。
が、少しの間逡巡し、その思いを飲み込みました。
一般的に、旧年に身内が亡くなった場合は、
年が明けることはおめでたい話ではないので、
「あけましておめでとう」のご挨拶は控えますよね。
しかし、浄土真宗ではその限りではありません。
なぜなら浄土真宗では、この命終わる時、ただちに阿弥陀如来のはたらきによってお浄土へ生まれさせていただき、お浄土で仏と成るため、
死ぬことは決して悪いことではないからです。
むしろ、お浄土で仏と成り、悟りを得るのであれば、
おめでたいことと言ってもよいでしょう。
「私たちの命は、阿弥陀如来のおはたらきによって、お浄土に生まれさせていただく。それも、お浄土で悟りの華の中から生まれてゆき、仏と成るんです。」
ということを歌われた和讃です。
阿弥陀如来に願われて生きる私たちは、
決して死んで消えてしまうような命ではない。
お浄土に生まれ、悟りの身となる、
ということを
「正覚のはなより化生して」と表現されているところが大好きです。
実は浄土真宗のお葬式では、お経と共にこの和讃を必ず読みます。
亡き人とお別れしてゆくことはとても悲しいことではありますが、悲しいだけではない。
阿弥陀如来のお慈悲によって、お浄土へ生まれる喜びの意味も必ずあるといただいていくのが、お葬式を勤める意義です。
昨年は母方の祖母の3回忌でした。
実家の住職である兄から、法話を頼まれましたので、
祖母への恩返しも込めて、法話をしました。こんなお話です。
大学院の頃、ミャンマーに旅行に行ったことがあります。
ミャンマーは言わずと知れた仏教国で、
至るところにお寺やパゴダと呼ばれる仏塔があります。
あるお寺に訪れた時、こんな風景を目の当たりにしました。
なんとも華やかな行列ですよね。
なにかのお祭りかと思い、現地のガイドさんに聞いてみると、
これは得度式だそうです。
得度式とは、お坊さんになる儀式のこと。
ここに並んでいる子どもたちは、それぞれ仏教について学び、あるいは修行を行い、この日ようやく僧侶となったのです。
日本でも得度式は行われていますが、
日本の仏教ではこんなに華やかな得度式を行う宗派はないと思います。
どちらかといえば、静寂の中、厳かな雰囲気で執り行われます。
しかし、ミャンマーの得度式では、華やかな服を身に纏い、
周囲の人たちが花びらを散らし、祝福の空気が流れていました。
思えば、僧侶になるということは、
人生で大切な教えに出会えたということ。
とても喜ばしいことなのです。
その時、私は自分が得度をした時のことを思い出しました。
19歳の冬。
僧侶と呼ぶにはまだ青すぎる小僧でした。
得度式を終えた後、坊主頭姿で記念撮影をした写真を
後日、祖母に送りました。
祖母はその写真を見て、涙を流しました。
嬉し涙だったと思います。
誰が見ても青すぎる小僧。
しかし、仏の教えに出会い、その道を歩むと決心した私の姿に、
よかった、本当によかったと、
心の底から嬉しかったのでしょう。
得度式とは、育ててくれた人たちに祝福される儀礼なのだと、ミャンマーの旅で知らされたのでした。
それは、
この命の行く先が定まるという大きな安心に包まれる教えに出会えたという喜びだったのです。
今まさに祖母はお浄土へ生まれ、仏と成り、私たちを支え続けてくれているのです。
亡き人とのお別れは悲しいことではあるけれども、同時に喜ばしいことでもある。ですから、浄土真宗に喪中という文化はありません。
……とは言いつつも、
大切な人を亡くされた方の心情はいかほどなものでしょうか。
やはり、まだまだ悲しい気持ち、寂しい気持ちが残る中で、
年が明けることをおめでとうとは言えないのが、正直な心情ではないでしょうか。
新年になったから気持ちを切り替える、というのも難しいと思います。
ですから、「あけましておめでとう」と言えないのであれば、
「言えない」で良いんだろうなと思います。
だから私はあの時、友人に浄土真宗と喪中のうんちくを語ることを止めたのだと思います。
しかし、このnoteを今書いたのは、
命の別れは決して悲しいだけではない、ということを
一人でも多くの人に伝えたかったからだと思います。