「観る将」が観た第9期叡王戦五番勝負第五局
6月20日、叡王戦五番勝負第五局が山梨県甲府市の常盤ホテルで行われました。将棋界注目の同世代対決はフルセットに持ち込まれ、藤井聡太叡王が八冠を堅持するのか、伊藤匠七段が悲願の初タイトルを獲得するのか、非常に楽しみな一局となりました。
前日のインタビューでは、藤井叡王は「大きな一局ですし、多くの方に注目していただける対局にもなるので、自分自身の全力を尽くして良い将棋が指せるようにと思っています」、伊藤七段は「非常に大きな一局になるのでプレッシャーも少なからずありますけど、自分の中で納得できる将棋を指すことができればと思います」と話しています。
戦型は角換わり
多くの名局が指されてきた対局室に、伊藤七段が紫色の着物と灰色の袴に濃紺に模様の入った羽織で入室すると、藤井叡王は濃紺の着物と黒い袴に白い羽織で入室します。改めて振り駒が行われ、先手となった藤井叡王がいつもと変わらぬ所作で角換わりに誘導すると、伊藤七段は堂々と受けて立ちます。
右玉対穴熊
伊藤七段が右玉に構えると、藤井叡王は玉を8筋に上がり、香を上がって穴熊に潜ります。伊藤七段が△4三銀と雁木の形に組むと、藤井叡王は飛先の歩を交換します。伊藤七段は3筋の歩をぶつけて桂頭を狙い、藤井叡王が4筋の歩をぶつけて銀頭を狙うと、△2三歩と打って飛車を追います。藤井叡王は▲2六飛とかわしつつ桂頭を守り、伊藤七段が4筋の歩を取ると、3筋の歩を取り返します。
角の打ち合い
伊藤七段が△4九角と打ち込むと、金を寄ってこの角を取りに行くと銀を食いちぎられて先手陣が崩壊してしまうので、藤井叡王は15分程の考慮で▲5六角と打ち、後手の角成を防ぎつつ後手陣の左右を睨みます。伊藤七段は33分の熟考で5筋の歩を伸ばして角を追い、藤井叡王が角を2筋に引いてかわすと、更に38分の熟考を重ねて桂頭に△3六歩と打ちます。
桂取りの応酬
藤井叡王は▲4五桂とかわし、伊藤七段が3筋に"と金"を作ると、7筋の歩を突き捨てて桂取りに△7四歩と打ちます。伊藤七段も桂取りに△4四歩と打ち、次の69手目を藤井叡王が考慮中に昼休となりました。AIの評価値は全くの互角、各4時間の持ち時間の内、残り時間は藤井叡王が3時間1分、伊藤七段が2時間1分と1時間の差が付いています。
歩頭に銀のタダ捨て
昼休が明け、藤井叡王が▲5九金と引いて角に当てると、伊藤七段は△3八角成とぶつけて角交換します。藤井叡王が7筋の桂を取を取ってから6筋の歩を突き捨て、後手の歩頭に▲6五銀直と差し出すと、伊藤七段は31分の熟考で同歩と応じます。藤井叡王は空けたスペースに▲6五桂と王手し、伊藤七段が△6四玉とかわすと、▲5三桂左成と成り捨てます。
取れないタダの飛車
残り1時間を切った伊藤七段が成桂を金で取ると、藤井叡王は飛車を6筋に回して王手します。伊藤七段が歩で玉頭を守ると、藤井叡王は同飛と食いちぎります。タダで取れる飛車ですが、取ると寄せられてしまうと見た伊藤七段は△5四玉とかわし、藤井叡王が▲5三桂成と金を取ると、飛車を取らずに成桂を取ります。AIの評価値は藤井叡王の64%と傾いてきました。
飛車切りの猛攻
藤井叡王は▲6四歩と銀頭を叩き、伊藤七段が同銀と応じると、同飛と食いちぎって後手玉を孤立させます。藤井叡王は更に▲6五歩と玉頭を叩き、伊藤七段が△5三玉とかわすと、▲6四角と王手を続けます。伊藤七段は△5四玉とかわし、藤井叡王が▲4六銀と上部への脱出路を塞ぐと、△5三銀と打って耐えます。
伊藤七段の反撃
藤井叡王は▲7三角成と詰めろを掛け、伊藤七段が△5二銀と引いて自玉の退路を作ると、▲7二馬と王手飛車取りを掛けます。飛車を犠牲にようやく手番が回ってきた伊藤七段は7筋の歩を伸ばして銀に当て、残り1時間を切った藤井叡王が銀を6筋に上がってかわすと、8筋の歩もぶつけます。
変調
藤井叡王は何か誤算があったのか少しそわそわした仕草を見せ、40分の長考で残り13分となり同歩と応じますが、AIの評価値は伊藤七段の54%とほぼ互角に戻ります。伊藤七段は△8七歩と垂らし、藤井叡王が攻防に▲7一飛と打つと、飛銀両取りに△9三角と打ちます。藤井叡王は▲7六飛成と銀に紐を付けつつ自玉に迫る歩を取り、伊藤七段が△4九"と"と押し売りすると、1分将棋に突入してから▲6九金とかわします。
流れは逆転か
伊藤七段は銀取りに△4八飛と打ち、藤井叡王が▲7七銀と引いて竜の横利きを通して銀に紐を付けると、金取りに△6六桂と打って竜の横利きを止めます。藤井叡王は▲8七金と金をかわしつつ垂れ歩を取り、伊藤七段が金取りに△7五桂と打つと、金を諦めて取られそうな銀を▲5五銀とかわしつつ桂に当て、後手玉に圧力を掛けます。AIの評価値はほぼ互角ですが、攻守は完全に入れ替わり、流れは後手に傾きつつあります。
粘り強い受け
伊藤七段は△7八歩と金頭を叩き、藤井叡王が金を8筋に上がってかわすと、△7九歩成と2枚目の"と金"を作ります。藤井叡王は▲6六銀引と桂を取り、伊藤七段が△8七桂と金を取ると、竜で桂を取ります。伊藤七段は△7八金と打ち込み、藤井叡王が▲7五歩と打って後手の角の利きを止めると、△6九"と"左と攻め駒を足します。
藤井叡王の勝負手
受け続けても勝機がないと見た藤井叡王は、銀取りに▲6四桂と怪しい反撃の狼煙を上げます。これまで数々の逆転劇を魅せてきた藤井叡王の勝負手ですが、1分将棋に突入した伊藤七段は冷静に△8八金と金交換し、自分の読みを信じて再度△7八金と打って下駄を預けます。AIの評価値は伊藤七段の80%と大きく傾きます。
8連続王手
藤井叡王は▲3四金と王手し、伊藤七段が玉を引いてかわすと、▲5二桂成と銀を取って王手を続けます。伊藤七段は玉を3筋に引いてかわし、藤井叡王が▲7八竜と金を取ると、"と金"で竜を取って先手玉に必至を掛けます。既に藤井叡王は後手玉に詰みはないと読み切っているようですが、▲4二銀から頓死筋を秘めた王手を続けます。伊藤七段が正確に応じて△4二玉と大海に逃れると、藤井叡王は少し残念そうな表情で投了を告げました。
本局のまとめ
本局は藤井叡王が穴熊に潜って攻め掛かり、銀のタダ捨てから飛車切りという駒損を厭わない豪快な大技が決まったかに見えました。伊藤七段は藤井叡王が評した「柔らかい受け」で決め手を与えず、飛車を取らせる代償に反撃に転じました。藤井叡王も粘り強い受けでチャンスを待って勝負手を放ちましたが、伊藤七段は怯まず先手玉を追い詰め逃げ切りました。新しい歴史を刻む一局に相応しく、両者が存分に持ち味を出し切った名局だったと思います。
本シリーズの総括
本シリーズは全局角換わりの将棋となりましたが、これまで相手の研究を受けて立つ姿勢を貫いてきた藤井叡王が、相手の経験が少ないであろう自らの研究手順をぶつける戦いが多く見られました。これは伊藤七段が竜王戦・棋王戦を堂々と相手の土俵で戦い続け、かつての藤井叡王がそうであったように着実に実力を向上させてきたことに対する敬意の表れだったのかもしれません。
伊藤七段は3勝2敗で自身初タイトルとなる叡王を奪取し、対局直後には「全体的に苦しい将棋が多かったと思うので、運が良かったと思っています」と少し戸惑うような表情で話しました。感想戦後の記者会見では「タイトルというのは子どもの頃から夢見てきたものなので、とても嬉しく思います」と喜びを表現し、今後どのような実績を挙げていくのか楽しみです。
藤井叡王はサバサバした表情で「終盤でミスが出てしまう将棋が多かったので、結果もやむを得ないのかなと思っていますし、それと同時に伊藤さんの力を感じるところも多かったかなと思っています」と話しました。お互いの力を認め合う両雄が、今後何度もタイトル戦で顔を合わせ、数々の名局を生み出してくれることを期待せずにはいられません。
叡王戦は、株式会社不二家が主催し、レオス・キャピタルワークス株式会社が特別協賛、中部電力・株式会社豊田自動織機・豊田通商株式会社・AMD・アパリゾート佳水郷が協賛しています。棋譜等は下記サイトをご覧ください。