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自分自身が自信をつけたり努力することが、他人を守ることに繋がる

大学で部活をやっていたんだけど、絶対にいじめは常に存在していた。(いじりとの境界線が難しいことも多いけど。)特に多いのは先輩から後輩へのイビリみたいなもので、後輩に文句を言うことが仕事のような人物もいた。

思い返すと、いじめに加担するのは「大して練習しないから微妙な実力しかない人、かつ、日常も人に流されて動く人」だった。

「死ぬほど練習しているから実力がある人、かつ、普段から自分の哲学に従って動く人」人は後輩をいじめたりしなかった。そういう人は、自分だけの世界を生きていた気がする。

これってどういうことかと言うと、結局、自分自身に対する自信の有無が行動に表れるということなんだと思う。
自分自身に対して自信が無いから他人の成長が脅威に感じる。成長を阻害したくなる。

ここでいう「自信」の源泉っていうのは、スキルが高いとか低いとかそういうことではなくて、いかに自分と向き合って、自分の苦手を克服しようとしてきたか。妥協せずに頑張ってきたか、というところ。

例えば、外国出身の人にその国の言語力で勝とうとしても仕方ない。
この時、自分自身に何の自信も無くて、頑張っていることも無かったら、単純に言語力というスキルの差だけを比較して妬むかもしれない。
でも、自分に何か頑張っていることがあって、自信を持てていたら、「自分は自分、他人は他人」と考えて他人を認められる。

誰しもが「後輩」という立場を経験して、その後「先輩」になっていく。後輩の立場のときには、大抵の場合、先輩に不満を持ったりする。これだからこの人は、、、と失望してしまったりもする。

だけど、不思議なことに、先輩に違和感を感じていたはずのその人が、自分が先輩になったら、どういうわけか自分自身もその轍を踏み、残念な先輩になってしまうことがある。

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自信は自分が充実するためにつけるべきものかというと、また、努力は自分のためだけにすべきものかというと、そうではないと思う。

自信をつけたり努力を重ねることは、将来自分と関わる人を守ることにも繋がると思う。だって、全く自分に自信のないまま流されて生きていたら、部活で見てきた人たちみたいに、後輩を妬んだりして無意識にいじめたりしてしまいかねないから。

反面教師にしたい先輩がいたとき「自分は決してこうならない」と誓うだけでは足りない。本当にすべきことは、自分自身に自信をつけようと努力すること。自分自身の課題ときっちり向き合い続けることなんじゃないかなと最近思う。

将来自分は家業を継ぎたいと思っていて、そのために日々頑張ろうと意識はしているんだけど、それでも時々サボりたくなる。悪魔が耳元で囁いてくるのだ。

別に頑張っても頑張らなくても家を継ぐことに変わりはないんだから
今はサボっちゃいなよ


こうやって悪魔に囁かれた時、以前の僕は何も言い返せなかったんだけど、今は反論できる。

悪魔さん。いや、まあ確かにそれも一理あるんだけど、将来自分と一緒に働く人を傷つけたくないから、自分に自信をつける必要がある。頑張っている人を見たときに妬んだりしないように、努力しておく必要があると思うんだよね。

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僕が大学の部活に所属していた時は、学年間の軋轢がめっちゃあって、僕もすごく悩んだんだけど、ひとつ上の学年のとある先輩(Yさん)が僕のことを救ってくれたのを忘れたことはない。
Yさんは僕のことを救ったつもりは無いかもだけど。
Yさんは別にめちゃくちゃ競技のレベルが高かったわけじゃなくて、何なら後輩の僕のほうが競技の実力があったと思う。
ただ、Yさんは自分なりに努力していて、自分自身の信念があって、それに従って流されずに生きていた。

あれだけ軋轢があった中で僕らのことを擁護するような発言をしたYさん。
相当な勇気が要っただろうし、リスクを犯したはず。あの一言で救われた。

当時は「ありがたい!かっこいい!」という気持ちで一杯で、それ意外何も考えなかったが、よくよく考えてみると、あの時に僕が見たのは、僕が目指すべき真のリーダー像だったのかもしれない。

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あお
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