【小説】つまらない◯◯◯◯ 26
聡美が手を伸ばしてグラスを手に取った。ほんのりと微笑んでいた。ごくりと飲みこんで、後味を確かめるようにしている。細く息を吐いてから、ゆっくりとグラスをテーブルに戻したけれど、そのあいだ、柔らかく微笑んだ目は、ずっとそのままの形で動かなかった。
俺との付き合いが始まるのを楽しみにしているのだろうなと思う。今までの彼氏とのこともあって、そうじゃない付き合いが始まると思うと、そんなふうになってしまうのだろう。
俺には彼女がいないから、セックスフレンドじゃなくて彼女になれると思っているのだろう。けれど、聡美が今彼氏だと思っている俺は、聡美の彼氏になりたいと思っていたわけではなかったのだ。それをわかっていないんだろうなと思う。
なぜ俺のことをもっと確かめもせず、俺と付き合うことにしたんだろう。嫉妬しないというのも、よく考えもしなかったのだろう。とりあえず自分が浮気されなければいいとだけ思って、気にしないことにしたのかもしれない。もしくは、俺を変えられると思ったのだろうか。俺が間違った考え方をしているだけなのだから、自分と付き合えばその考えを正せるとでも思ったのかもしれない。けれど、少なくても、今までの人では正せなかったから俺はいまだにそうなのだ。それなのに、自分ならそれを正すことができると思ったのだろうか。それとも、俺はずっと変な女とばかり付き合ってきたんだなとでも思っているんだろうか。
今まで付き合っていた女の人たちは、一人を除いて、みんな浮気されたくないと言っていた。言い分も同じようなものだった。自分が浮気しないのは自分が嫌な気持ちになるからで、自分は浮気されたくないし、自分がやられる側になったときに嫌なことは自分もしたくない、というようなことを言っていた。残りの一人は、自分はしたし、これからもするかもしれないし、するなとは言えないけれど、されるのは嫌だし、されたら怒ると言っていた。
浮気されると傷付くというのがわからないわけではないのだ。それを知って傷付くだけでなく、未来のことが不安になるのだろう。だから、ふたりの関係ができるだけ長続きするように、ふたりの関係を守るためにできるかぎりのことをしていたいという気持ちなのだろう。俺だってその気持ちがわからないわけではないのだ。けれど、俺は捨てられるかもしれないということを不安に思っていないのだ。それ以前に、いつかこの人は自分の前からいなくなると思っていて、それは今であってもおかしくないと思っているのだと思う。俺だってひとりになってしまうことを想像すると寂しいような不安な気持ちにはなる。けれど、ひとりになるのも、ひとりでいることも、普通で当たり前なことだとも思っていた。
けれど、結局は傷付く人に傷付かない人が合わせてやるしかないのだ。俺は自分のためにどうしてほしいということを何も求めていないけれど、相手は俺と一緒にいることの中で、傷付いたり悲しまないでいられることを求めてくる。ふたりで一緒に過ごすうえで、相手を嫌な気持ちにさせないことをルールのようなものに思っていて、俺にもそれを守ってほしいと願っていた。俺だって、嫌な気持ちにさせていいことは何もないのだし、それがルールだということ自体は、そうなのだろうと思っていた。とはいえ、一緒にいるときにはそうでも、一緒にいないときに相手が何をしようと勝手だろうと思っていた。けれど、相手は俺が他の異性に興味を持ったり、関わりをもったりすることも、自分を嫌な気持ちにさせるルール違反のように思ってくる。私はこんなにあなたのことを大事にしているのに、とか、私はあなたを選んで、何でもあなたを優先しているのにとか、そんなふうに思われるのだ。
そういう言い争いになったときには、だったら浮気したいときは浮気する前に別れればいいんだろうかと思っていた。それでいいならそれでいいのだ。そんなことぐらいで別れてしまいたいのなら、さっさと別れてしまえばいいのだし、浮気しないことでしか一緒にいてくれないのなら、そもそも一緒にいてくれなくていいのだ。俺としては、相手が浮気しないでいてくれるからといって、この人とずっと一緒にいようと思ったり、自分も浮気しないようにしようと思ったりするわけではない。何かをしないことを、いくらたくさんやってくれても、何かをしないことは、何をしたことにもならないのだし、それで喜んだりはできない。相手が自分を傷付けないことで喜びたいのではなく、相手が俺を面白がらせてくれていることに喜びたいのになと思っていた。俺としては心底そう思っていたのだ。けれど、相手にとってはそういう問題ではなく、どこまでも自分の気持ちの問題でしかなかったのだろう。浮気は嫌だと言う人は、浮気されるのを想像するだけでも胸が苦しくなる自分の心を守ってほしいと思っていて、自分のそういう気持ちは守る価値がないかのようなことを俺が言うのを、嫌なものは嫌だとひたすらに嫌がることで、やめさせようとしていたのだろう。
俺にしても、他の女の人とセックスしたときに、付き合っている相手を傷付けたいと思っていたわけではない。けれど、傷付けてもいいと思ってはいたし、これが原因で捨てられてもいいとは思っていたのだと思う。何も考えずに、ただセックスが気持ちいいから他の女の人とセックスしていたわけではなかった。したければセックスできそうなときでも、しないほうを選んだことも多かった。付き合っている人に知れたら傷付けるなと思って、そこまでしてこの人と寝てみたいわけではないと思って、一歩を踏み出さなかったことも多かったように思う。
けれど、それはちょっと嘘が混じった思い方なのかもしれない。彼女のいない時期でも、そういう流れがありそうなときの、そこまでして寝たいわけでもないなという気持ちはたいして変わらなかったようにも思うし、付き合っている人を傷付けるからというのは、しないことを選んだときに自己満足のためにとってつけたものでしかなくて、浮気をすることのブレーキにはほとんどなっていなかったのかもしれない。実際、彼女がいるときに、もう浮気はしないようにしようと思ったことは一度もなかった。
気持ちが釣り合っていないといえばそうなのだろう。傷付けたくないという気持ちと、傷付けないために自分にとっていい経験をできる機会をこの先ずっと逃し続けるということとを天秤にかけたときに、絶対に浮気はしないという立場には立たないことを選んでいた。
思い返しても、今まで付き合った人とは、浮気はしないという約束をしたことがなかったように思う。浮気することもあるかもしれないと言っていたり、相手から「向こうから来たりしたらするんでしょ?」と言われて「そうだね」と答えたりしていた。そして、浮気するかもしれないなら別れるというふうに言った人はいなかった。俺が浮気したからといって別れたいと言った人もいなかった。
聡美は絶対嫌と言っていた。俺に対してもそう言うんだろうか。けれど、前は自分が浮気なり不倫なりをしていたのだし、嫌だとして許さないかどうかというのはよくわからない。
別に、聡美と付き合っているあいだ他の人とセックスしないだけなら、特に難しいことではないのだろうとは思う。聡美の前に付き合っていた人と一緒だった一年半のあいだだって、誰にも近付かなかったし、好意を向けられているのを感じることはあっても、据え膳を食べさせてあげようと近付いてきた人はいなかった。放っておけば何事もなく時間が過ぎていくのかもしれない。
そして、それが特に難しいことではないと思っているのは、浮気を絶対に禁止したがるような人だったなら、そもそも聡美とずっと一緒にいるということはないのだろうと思ってしまうし、一、二年とか期間限定で付き合っているのなら、その期間他の人としないことは簡単だと思っているからなのだろう。
テレビの画面が、試合のダイジェストからスタジオに戻った。
「ビール飲む?」
聡美がそう聞いてきて、俺は頷いた。
「じゃあ、取ってくるよ」
聡美は立ち上がって、俺はタバコを取って火をつけた。
昨日ふたりで飲んでいるときでも、それよりもっと前でも、そういうことを話せていたとしたら、聡美は俺と今こうしていたんだろうかと思う。まだセックスしてみて一日経っただけで、様子見の段階だろうに、聡美は浮かれすぎているように思う。
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