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Vaundyの「トドメの一撃」は俺には国府達矢っぽくない

 Vaundyのトドメの一撃を聞いて国府達矢を想起したという感じの感想をネット上にいくつか見て、そんなことあるのだろうかと思って曲を聞いてみたけれど、冒頭の歌い方でそう感じただけなんじゃないのかと思った。

 けれど、雰囲気とか、そういうところで似ていると感じている人もいるようで、そういうことを書いている人のブログのリンクがあったから読んでみると、国府達矢がやっていたことをポップに突き詰めていくとこういう感じになるんじゃないかとか、国府達矢が一般層のリスナーにまでは浸透していけなかったところをVaundyが完成させてしまったように聞こえるとか、そういうことが書いてあって、それがどういうところについて言ってることなのかはわからなくはなかったけれど、それは国府達矢的だったりロックブッダ的なものなんだろうかと思った。

 ロックブッダとロック転生という、国府達矢が世間の一部に認知されているアルバムに対して、俺はそれを歌もののポップスとは全く聞こえ方が違う音楽だとずっと思ってきたのだと思う。

 その二作では、歌とオケという聞こえ方を拒絶するように、歌は完全に演奏に飲み込まれっぱなしになっていて、俺はそれらを聞いていると、いつもギターを中心にした演奏の全体にしか意識がいかなくって、その全体が充実したものとして連続していくのを延々と聞いているような気分になっていた。

 トドメの一撃は、楽器の鳴りが派手にからみあって聞こえる時間帯もあるし、そういう面でもいい曲だなとは思うけれど、曲を聞いていてぐっとくる瞬間というのは、曲の展開と歌の盛り上がりになっていた。

 国府達矢のロックブッダとロック転生では、ぐっとくるところは大半がギターの音だったり、その他の楽器も含め演奏がからみあって続いていくところになっている。
 歌はそうやって演奏の充実をずっとたどっているところに入ってきて、演奏にさらなる彩りと刺激を与えてくれるものというように感じられる。

 トドメの一撃では、演奏を延々と聞いている中で歌がそこにからんでくるような聞こえ方はしてこなかった。
 歌もののポップスとして、歌を中心にした曲の進行をオケが支えて、楽器の音が彩りと刺激を与えているような聞こえ方に思えたし、俺にとっては体験され方として種類が違う音楽に思えたのだ。

 ロックブッダは国府本人が語るところでは、ロック転生が伝わらなかったから、これなら伝わるのではないかというものを作ろうとした作品だったらしい。

 ロック転生だとかロックブッダという題名をつけるだけあって、その二枚は曼荼羅的なものなのだと思う。
 絵巻や物語のようなものではなく、世界としてそこに存在するようにと構築されたものなのだろう。
 もともと目指している聞こえ方も、想定されている聞かれ方も、国府達矢の他の作品とすら違っているのだと思う。

 ロックブッダとロック転生は、どちらもアルバムを通して聞くのを千回以上やっているのだと思うけれど、いまだに続きの歌詞が思い浮かばなくて驚くことがある。
 聞けば聞くほど、歌詞を聞かなくなっているのだろうし、歌として聞いていない状態になっていっているのだろう。

 その二作品は、聞いていると、演奏がそうなったからそういう曲になっていったという現象が生起していくのをたどっているような感覚になっていて、好きな曲の好きな感じを楽しんでいるときとは、聞いている感覚がかなり違っている。

 だからだろうけれど、新曲のプレイリストとか新しく出た誰かのアルバムなんかを中心に聞いていて、だんだんと音楽を聞くのにしんどい感じになってきたときでも、その二作品を聞くと、曲を聞こうとしなくても、ただ聞こえているものを耳がたどっているだけでなんとなく気分がよくなってきて、疲労感が一気に薄れていくような感じなってしまったりする。

 そういうレベルで他の音楽と作用が違っていることもあって、発売から何年経っても、ずっと繰り返し聞き続けることになっていたりもするのだと思う。

 自分にとってとても心地よい道を歩いているようなもので、何度歩いていても、途中の木々に光が当たっている感じとか、角を曲がって景色が開ける感じとか、そこから次に曲がるところまでの道の長くのびている感じとか、そういうものには、毎日歩いている道でも毎回なんとなくいい気分になれてしまう。
 俺にとっては、国府達矢のロックブッダとロック転生は、そういうものなのだ。

 同じ人の同じ話を何年にも渡って繰り返し聞かされているとうんざりしてくるものだけれど、そうなっていくような聞こえ方が異様なまでにしないものになっているのだ。

 俺は国府達矢から何も伝えられていないし、何も受け取っていなくて、まるで歩いていて気分のいい道を五年も十年も飽きたなと思うこともなく歩いているようなものとして、国府が作り出した景色を何度も通り抜けているだけなのだと思う。

 そして、国府達矢の曲の中でも、そういう聞こえ方をするのは、ロック転生とロックブッダだけなのだ。

 俺はロック転生発売以降にライブに行くようになったから、七尾旅人が本当にすごかったと語っていた、ロック転生を出すまでの数年間の、ライブだけをやっていた時期の、どんどんとやっている音楽が変化していって、しかも同時代の音楽とは明らかに違うものなっていくのを毎回感じられていたと語られていた頃のライブを見ていたわけではなかった。

 俺はロック転生発売以降にライブに行くようになって、そこから数年間はほとんどのライブに行って、その後は行けるものにはなるべく行こうとしてきたような感じだった。

 俺はそこ以降のライブしか知らないけれど、それでも、国府達矢はまだ音楽的な発展を続けていて、ロック転生発売後の新曲たちは、ロック転生とは違って、歌が中心にあるようなバランスになっていた。

 ロック転生を作り上げたあとで、国府達矢は自分の中の感情が放出される経路として、ロック転生で使っていたのとは違った経路からでてくるものを形にしようとして、それによって、曲の形や歌い方や歌う姿なんかも自然と表現しようとするものにフィットする形に変化していったということだったのだろう。

 ロック転生発売後からしばらくの、エレキギターで弾き語りをしていたときの国府達矢が、深い集中力の中で新曲をやっているときの姿は、ギターをもって歌う男を演じる舞踏をやっているようにも見えた。

 歌うことができる精神状態に入っていって、歌い始めたり、ギターを鳴らし始めると、そんなふうに国府がうごいた結果として、国府の肉体とその動きから伝わってくるものが音声化された音が、その場に響き渡っているような聞こえ方だった。
 ロック転生の続きの精神性に立ちながら、違う姿で歌われた曲だったように思ったし、それは曼荼羅的というよりは、パフォーマンスアート的に、音楽体験という以前に人が音楽する姿を前にして現実体験として圧倒されるものだった。

 ロック転生に入っている曲と、それ以降の新曲は、くっきりとした違いがあった。
 特に、エレキギターで弾き語りしているときにしかやっていなかった曲は、曲構造からして全く違っていたし、バンド形式でのライブが増える前くらいからやり始めた曲は、バンドを想定した曲になっていたのもあってか、構造は歌もののバンド音楽らしいものになったけれど、ひとつのライブでロック転生の曲もそれ以降の曲も演奏する場合でも、新曲に比べて、ロック転生の曲は歌が前に出ないように聞こえていたし、歌のパートで引っ張っている部分が弱くない「うた」ですら、歌声が中心になっている曲には聞こえなかった。

 国府がロックブッダやその後の二作を発売したあとのライブで語っていた話では、次の次の次のアルバムとして、当時の曲を中心にしたアルバムが作れたらいいなと思っているというようなことを言っていた。
 その頃の曲というのは、他の時期の曲とはひとまとめにしにくいような、そのときのモードというのがはっきりある作品群だったということなのだろう。

 そして、そこからだんだんライブをしなくなっていった時期に、国府達矢は一度頓挫したロックブッダを改めて制作して、けれどミックスに行き詰まり、しばらくの不在期間を経て、またライブするようにはなったけれど頻度は少なくて、かなり苦しんでいるようだったけれど、不定期にライブをしながら、スラップスティックメロディと音の門の曲を作り上げて、ついにミックスの仕上がったロックブッダを発表できたという流れだったのだろう。

 スラップスティックメロディと音の門の曲は、もっと国府自身からすんなりとでてくるものをすんなりと形にしようとしたものだったのだと思う。
 だからこそ、より国府達矢の素を感じられる作品になっているのだろうし、ロック転生ロックブッダを作ったときのような、自分の中にある音楽のイメージを次々と解体して再構築していきながら、音楽の姿自体を発展させ続けて曲の中に充実が充満しきったものを作ろうとするようなモチベーションで作られていないから、曲の中での楽器の鳴りの響き方からして別なものに聞こえるのだろう。

 そんなことはありえないことなのだろうけれど、国府達矢がロックブッダでやったことを、アジア的な響きを思わせるたくさんのキラキラした音が詰め込まれた多幸的な雰囲気として、自分の持ちネタのように思って、スラップスティックメロディの中にもそういう曲がいくつかあったのなら、ブログで書かれていたような、国府達矢のやっていたことがVaundyのトドメの一撃という曲によってポップな完成形にされてしまったという物言いにもなんとなく共感できたのかもしれない。

 けれど、ロック転生もロックブッダも、テイストではなく成り立ちからして異質なものだし、その異質さは、国府達矢の作品群の中でも、その二作品に特有のものなのだ。

 その二作は、もっと何か異質なものの達成としてできあがったもので、イメージやテイストで比較しても空回りするだけなのだと思う。

 近年でロックブッダ的な達成を感じさせてくれたアルバムということだと、俺にとっては、DJ PythonのMas Amableが一番そんなふうに感じた作品になるのだと思う。

 これも現実の景色のようにして通り抜けることができるアルバムになっている。

 砂原良徳のLOVEBEAT以上に景色的な揺るぎなさを実現できてしまっているように感じるし、千回以上聞いても、耳が心地よい道を散歩できているような気分で、アルバム全体分の時間を過ごさせてくれる。

 それがいいとか、そのほうがすごいとかではなく、それらは異質なものの達成なのだ。


(終わり)



(続きのような記事)


(DJ Pythonがその後出したEPをピッチフェークでかなり高評価されていたことについての記事)


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