【小説】つまらない◯◯◯◯ 39
テレビの中では、サッカーコーナーが終わって、野球のニュースが始まっていた。
「もういい?」
聡美がテレビを見ながらそう言った。
「いいよ」と答えてリモコンに手を伸ばした。
「でも、いいの? このあと、ベルギーだよ」
俺がそう言うのを聞きながら、聡美はベッドの上に伸びて、「見たら遅くなっちゃうじゃん」と言ってストレッチを始めた。
「まぁね」と言って、テレビを消した。
「見終わってからしたら、寝てる時間ほとんどなくなっちゃう」
聡美はそう言って笑った。
「まぁね。俺もそこまで見たい試合なわけでもないし」
俺はグラスを取ってビールを飲んだ。聡美の身体が視界に入って、白くてくたっとした肉のついた腕が伸びていくのに視線が引っ張られていく。
俺が標準体重よりは痩せ気味のほうが好きなのは、話したんだっけと思った。そう言ったら痩せてくれるんだろうか。胸はあまりなくなるのだろうけど、俺はそれでよかった。腰まわりから太ももにかけてがほっそりしてくれたらうれしいんだろうなと思う。三十過ぎまではずっとガリガリだったらしいし、そこに戻すという感じなのだから、できなくはないのだろう。
そうしてくれたとしたら、どうなるのだろうなと思う。骨があたるようになっても、俺はあまり気にならない。身体全体のボリュームとしても、貧弱気味の俺と抱き合っているにはもう少し肉が減ったほうがもっとしっくりくるのだろう。肉の適度な柔らかさや、少しひんやりしてしっとりしている肌質も変わらないのだろうし、今感じている気持ちよさの中で損なわれてしまうものはないのだろう。
なんとなく、自分は今幸せなんだろうなと思った。聡美のことが好きで、セックスしたい気持ちまである。セックスしたい気持ちがあるということは、それだけでとてもいいことだし、とても落ち着くことだなと思う。特にセックスのことなんて考えていないのに意味なく勃起しているときですら、安らかな気分になってくるものなのだ。そばに自分を勃起させてくれる人がいるなんて、幸せ以外の何ものでもないのだろう。
セックスしたい気持ちはいつでもあるわけではない。いつでもあるのかもしれないけれど、現実の他人を前にしていると、その人との関係性で、セックスしたい気持ちはすぐに消えていってしまう。空腹は誰と一緒にいても消えないし、眠気も誰と一緒にいても薄まらない。俺にとって性欲は穏やかで気まぐれなものだった。付き合っている人がいても、セックスしないで一日が終わることが珍しくなくなってくると、その人に対してセックスしたいということが頭をよぎることすらなくなっていく。寝るときに、したほうがいいのかなというふうに思って、どうなのだろうと相手を確かめて、けれどお互いに相手に求められているわけでもないからと、そのまま黙って眠ってしまう。相手にとってはどうだったのかわからないけれど、俺にとっては、黙ったまま眠るのはさほど苦しいことではなかった。ただ、求められないことが寂しかったり、求めてあげられないことが虚しかったりするだけだった。
今は、セックスしたいという気持ちがある。さっきまで入れていて、それなりにだるくなっているのに、出していないからか、またすぐに勃ちそうな感じで、勃つのならまた入れたいというような気分になっている。
きっとセックスがしたいという気持ちがあると落ち着くのではなく、したいことがあるというのが落ち着くことなのだろう。ここしばらくの自分を思えば、今セックスがしたいと思っているくらいにはっきりした感情として何かをしたいと思うことなんてなかったように思う。ずっとただ目の前にあることをやっているだけだった。したいことがあって、それに手を伸ばして存分に楽しめるなんて、自分の生活の中にはほとんどないことだった。せいぜい昼休みに今日は何を食べようかなと楽しみにしながら飯を食いに店に向かうというくらいだろう。それにしたって、いつもの中華屋に行って週替りの五品の中から一つを選んでいるだけだし、出されたものを貪り食っているだけだった。セックスしたいと思って、自分の好きに相手の身体に触ってあれこれ楽しめるなんて、自分の生活の中ではとても特殊なことなのだ。
幸せなんだろうなと思う。すでに幸せにしてもらっているのだ。誰よりも幸せにしてもらっているのかはわからないけれど、とりあえず、俺がセックスしたい身体が、俺とセックスしたがっていて、そして、やり始めると、俺がやっていることのすべてを感じようとしてくれて、気持ちよさそうにしてくれる。誰よりも幸せとかそういうことじゃなくて、誰だって、それが何よりも幸せなことなんじゃないかと思う。
聡美は仰向けになって、身体をひねっていた。スウェットのワンピースの裾が少しずり上がって、二つの白い脚が並ぶようになって、そのしっとりとした白さが二つぶん広がっている。
聡美の脚に手を伸ばした。手のひらが触れると、思った以上にひんやりしていた。ゆっくりと脚の付け根へ手のひらをすべらせていくと、太ももの真ん中でさらに冷たくなって、付け根あたりで暖かくなってくる。
「する?」
聡美が微笑んで聞いてくる。
「ううん。ストレッチしてからでいいよ」
俺はそう答えて、また手のひらをゆっくり膝に戻していった。
「そう?」
「タバコも吸ってるし」
「うん」
膝の上の手のひらを膝と膝のあいだに差し込んで、そのまま腿のあいだに差し込んでいく。ただ女の人の肌に触れているというだけで、別に何ということもないはずなのに、もっと身体全部でくっつきたいなという気持ちになってくるのは、聡美の何がそうさせているのだろうかと思う。
きっと今、俺は幸せを感じているのだろう。それでも、幸せにしてもらっているからといって、この人と一緒にいようと思えるわけでもないのだ。今は幸せなのだと思う。今は一緒にいたい。けれど、今だけじゃないのなら、一緒にいるためには幸せだけでは足りない。それは今まで女の人と付き合ってきても感じてきたことだった。
聡美は俺にいろいろしてあげると言っていて、自分は相手を誰よりも幸せにしてあげられると言っていた。それは俺の幸せの大きさについて言っていたのかもしれないけれど、幸せというのなら、俺は今まで付き合ってきた人たちとも幸せだったのだ。充分に幸せだったのに、幸せが充分にあるだけでは物足りなかった。
俺が今までどんなふうに生きてきて、どんなことを感じてきたなんてわからないのに、誰よりも幸せにしてあげられるなんてよく言えるなと思う。まさか、幸せじゃなかったから三十三歳にもなって独身なんだろうとか、そんなふうに思っているのだろうか。
聡美が独身なのはそういう理由なのかもしれない。幸せにしてあげられるはずなのに、幸せにしてあげるのをさせてもらえなかったけれど、今度こそそうできて、そうしたら今まで幸せになれなかった自分も幸せになれるはずだとか、そんなふうに思っているのかもしれない。
俺がどうしても引っかかってしまうのはそこなのだろう。自分と一緒にいる人を誰よりも幸せにしてあげられるというのでは、好きになれさえすれば誰でもいいみたいだけれど、そんな思い方で一緒にいる相手は幸せになれるんだろうか。
聡美の前に付き合った人は、俺のことを「やっと巡り会えた人」だと言っていた。いい人だな、好きだなと思えるくらいの人はいたけれど、二十歳の頃以来、またこんなにも人を好きになれるなんて思っていなかったと言っていた。聡美がこれから言っているとおりにしてくれたとしても、誰よりも俺を幸せにできるかはわからないことだろう。きっと、聡美のほうが、楽しくしてあげようとあれやこれやしてくれるのだろう。けれど、その人は、自分のための何かとしてではなく、俺を愛してくれていた。俺のことを特別に思ってくれていた。聡美がその人と同じくらいの強さで、俺を面白がってくれて、俺自身を感じようとしてくれるには、かなりの時間とそれ相応の巡り合わせが必要なのかなと思ったりもする。
もちろん、聡美とは、セックスして、気持ちを乗せた顔をお互いに向け始めて、まだ一日しか経っていない。一年半くらい付き合った人が最終的に言ってくれていたことと比べても仕方ないのだろう。
その人とは、お互いに好きなまま、一緒に過ごしているには楽しいままで、付き合っていることが苦しくて別れた。その人は、俺とずっと一緒にいたいと言っていた。そして俺はそれに応えられなかった。お互いに好きで、それほどにまで強く俺のことを思ってくれた人とでも、ダメだったのだ。その人とは、そんなふうに思ってくれるようになるほどまでに、気持ちのやりとりを積み重ねたのだし、俺としても、それが相手を大切に思うということなのだろうけれど、今まで付き合った人たちよりも、この人を傷付けたくないという気持ちに縛られるようになっていった。よかったと思えることがこの人にたくさんあるといいなと思っていたし、自分が一緒にいるときは自分がそれをできるだけ感じさせてあげたいなと思うようになっていった。そして、別れるときには、その人は「私よりショウちゃんを愛してあげられる人なんかいないんだよ」と言っていた。「そうだね。多分そうなるんだろうね」と答えた。俺にしたって、この人以上に誰かを大切に思えることがこの先なかったとしても不思議ではないなと思った。聡美は誰よりも幸せと言っているけれど、誰よりも俺を愛しているわけでもなくても、誰よりも俺を幸せにしてあげることができるんだろうかと思う。
そもそも聡美は、毎日のように俺の顔を見てはいても、特別何も感じることのなかった二年を過ごして、そのうえで、好きになれるか試してみて、引っかかるところもありつつ、なんとか好きになれたのだ。そんな誰でもよさそうなところからスタートして、聡美の前に付き合った人のように、俺のことを特別なものに思っていけるのだろうか。
もちろん、聡美だって誰でもいいわけではないのだろう。好きになれるだけでもかなり相手を限定してしまうことなのかもしれない。俺だから好きになる対象として許容できたところはあったのだろう。けれど、許容なのだから許容範囲はあるのだろうし、それはそう狭くもないのだろう。男の一割とか五分くらいにはそう思えるのかもしれない。そして、それくらいなら、俺は聡美にとってちっとも特別ではないのだろうと思う。
お互いを好きになるというだけなら、ある程度、誰と誰とでも可能だったりもする。けれど、その人と一緒にいるときの自分が、他のどんな時間よりも自分らしい自分だと思えて、その人を見守っている自分の気持ちが、自分の持っている気持ちの中で一番嘘がなくて温かくてずっと続いてほしいような気持ちであるような、そんなふうに思い合える関係は、誰とでも作り上げられるものではないのだ。好きな人と一緒にいられれば、それだけでいい感情が自分の中に湧いてくるものだったりするのだろう。けれど、その相手と一緒にいる時間が、自分がひとりでいるときよりも自分らしく自由な気持ちでいられる時間になるような、そういう関係もあって、俺は今まで付き合ってきた人たちとは、どの人ともそんなふうになっていけたと思っている。
聡美はもっと簡単なことを望んでいるのだろう。聡美は好きになれた人を幸せにしてあげたいのだ。それは相手が聡美の気持ちを受け入れてくれさえすれば、あとは自分次第でどうにかできることなのだろう。それなのに、聡美はわざわざそれに当てはまらない人を選んでしまったのだ。幸せにしてもらいたいという気持ちがない俺は、聡美とって反対の意味で特別な相手なのかもしれない。それなのに、好きになれたからと、聡美はもう俺を幸せにできるつもりでいるのだ。
もちろん、どうなるのかは付き合ってみないとわからないことなのだろう。そして、付き合ってみないとわからないと思いながら、とりあえず好きだからと付き合ってしまうものなのだろう。そして、そんなふうに付き合い始めても、相手を特別に思えるようになるほどの時間を一緒に過ごせたりもするのだ。
聡美の前に付き合った人にしても、付き合ったのは、何の確信があったわけでもなく、そういうなりゆきに身を任せてみたとしかいえないような始まり方だった。知人と飲んでいだときに知り合った人が、自分が主催する異業種交流会という名目の飲み会に誘ってくれて、そこで俺はその人と初めて会った。たくさん人がいる中の一人だったけれど、ぱっと目に入って素敵な人だなと思った。飲み会の場ではほんの少ししか話せなかったけれど、数日後に俺が連絡して、そのまた数日後に二人で飲んで、その日のうちに打ち解けて、また数日後に俺の部屋に来て泊まっていってくれた。
そのときも俺はどういうつもりでもなかった。ただ飲み会で素敵な人だなという印象が残っていて、週末をひとりで過ごして寂しかったときに気まぐれに連絡を入れてみて、会えることになったから会って、そして、そういう流れになったからそうしていただけだった。
そして、付き合っているのかはっきりさせないままで、しばらくのあいだ会っていた。俺のほうはただ何も考えていなかっただけだった。その人のほうでも、歳の差があるしどうせダメだろうと思いながら、まぁいいや流されてみようと思って流されるままにしていたらしかった。そんなふうに始まって、一緒に過ごすうちにどんどん仲良くなって、どんどん好きになっていった。けれど、その人と自分との関係がこれからどうなっていくのだろうとか、どうしていきたいとか、そういうことは何も考えていなかった。だから、その人が俺との未来を望むようなことを言ったとき、俺はそれにひどく驚いた。俺はまだ未来のことなんて全然想像もしていなかった。その人との未来だけでなく、自分の未来についても、全然想像なんてしていなかった。
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