【小説】つまらない◯◯◯◯ 58
少し息が上がってきて、両肘をついて、聡美に軽くもたれかかるように胸と胸を密着させて息をついた。少し腰に力を入れて深くまで押し込むようにすると、手が腰に回ってくる。柔らかく腰を抱かれると、聡美の手に触れられる感触がはっきりと身体の中に広がっていく。声が漏れそうになるのを我慢するけれど、息は大きく漏れて、本当にこの手のひらはすごいなと思う。
聡美はじっとりと俺を見詰めていて、キスすると唇を押し付けてくる。そんなに舌を使ってくるわけでもなく、俺の舌の動きにたまに小さくぴくりと反応しながら、受け身な感じに舌を絡めてくる。無理に舌であれこれしてくれるより、俺のキスを感じてくれているのがはっきり伝わってきて心地がいいかもしれない。
舌をゆっくり抜いていくと、聡美の舌がそれにくっついてきて、開いた口から舌が少し出ているのが見える。それがかわいくて、また唇を近付けていく。
このままでいいのなら、このままいけるのだ。この人と一緒にいたら、楽しい時間がたくさん過ごせるのだろうなと思う。聡美とならそれは簡単なことなのだろう。話していればずっと楽しく話が進んでいくし、メッセージをやりとりしていても楽しいばかりでやりとりが進んでいく。この二ヶ月、とても楽しかったのだ。
聡美とは同じ職場だし、少し前までは同じ部署だった。今でも隣の島だから、なんとなく何が起こっているのかはわかる。聡美は今は営業職だから、契約が取れるたびにおめでとうございますというような声が聞こえてきたりする。だから、会えばいつも、今日仕事でどうだったとか、職場の誰それがどうだったねとか、そういうことについてあれこれと話していた。
俺は今まで付き合っている人にあまり仕事の話をしなかった。そもそも、仕事について話したいようなことがなかったというのもある。俺の場合は、やっている仕事も、仕事をしているうえでの気持ちも、仕事上の人間関係でも、あまり変化があるものではなくて、かといって、細かいことを話すと相手としても聞いているのが面倒だろうと思って、たまに仕事はどうかと聞かれても、特に変わらないかなと答えて、それで話が終わるようにしていた。
聡美とは、毎日仕事の進捗やら会社内での出来事についてメッセージを交換していることもあって、俺が何をやっているのかなんとなく知ってくれているし、それについてのこれまでの経緯もある程度わかってくれているから、最初から最後まで説明しなくても、ちょっと話せば簡単にどういうことかわかってくれる。だから、仕事について何か聞かれても、億劫にならずに思うことを話すことができた。俺のほうも聡美の話を簡単にわかってあげられたし、聡美があれこれと話してくれるのを楽しく聞いていた。
そうやって何でも話してみると、仕事の話をするのは楽しいものだった。毎日一日の大半は会社にいるのだし、いろいろやっていればいろいろ思うことは出てくる。社内の人たちについても、困った人がまた困ったことを言っていたとか、あのおばさんの服がまた微妙にギャルっぽかったとか、あの人が髪型を変えたのがどうとか、話題を出した瞬間にそうそう見た見たと笑い話ができた。今までは、職場の人と喫煙所や飲み会で軽く話す以外には、あまり誰とも仕事や職場の話をしていなかったから、仕事という自分の日々の大半について思うことを、ただ自分の中で消化しているだけだった。会社の中での自分の気持ちについて継続的に人と話すのは、社会人になって初めてだったけれど、そういう仕事の中でのひとつひとつについて、思うことを話したり、話せなくてもメッセージで送ったりできることは、ただやることをやって何を思っても黙ってすませているのと、気分としてずいぶん違った。何かおかしなことがあったり、面白いことがあったり、嫌なことがあっても、聡美にこういうことがあったよと話そうとか、タバコに行ったときにメッセージで送ろうと思ったりして、そうすると、面白かったことをもっと面白がれたり、嫌なことでも気分が楽になったりした。
実際、聡美と仲良くなってから、仕事をしているうえでの自分の気持ちはずいぶん違ったものになったように思う。この数ヶ月のあいだ、自分が主担当だった案件がスムーズには進まず忙しかったこともあって、周囲の人たちの仕事への消極性にずいぶん嫌な気持ちになって、三年を待たなくても、この案件が落ち着いたらさっさと辞めてしまったほうがいいんだろうかと毎日のようにうんざりしていた。聡美が前向きで気持ちが軽くなる方向に話してくれることで、ずいぶん気持ちを支えてもらっていたのだろうと思う。そして、自分の仕事の話ができるだけではなくて、聡美の話を聞きながら、聡美があれこれ頑張っていることをひとつひとつ褒めていられたのも、俺の気分をよくしてくれていたのだろうと思う。頑張っているアピールに付き合わされて、取ってつけたように褒めてあげていたわけではなく、心からそう思ってえらいねと褒めていられた。それもあったから、自分が仕事の話をするときにも、なるべく前向きな話をしようという気になれていたし、そうやって話して、それをちゃんと聴いてもらえることで、ずいぶん元気をもらっていたのだと思う。
そんなふうにして、お互いのそれなりに仕事ばかりの日々を一緒に楽しいものにしていたのだ。そして、そういうことはこれからも続けていくことができるのだろう。俺にしても聡美にしても、できることはすべてやっていると言えるほどではないにしろ、後ろめたいものがないくらいにはまともに仕事をしている。このまま聡美と一緒にいれば、仕事も含めた毎日のこまごましたことを相手と楽しくお喋りするためのネタにできてしまうし、聡美の前向きさに、心から褒めてあげたい気持ちにならせてもらえるし、実際に褒めてうれしそうな顔を見せてもらうことができる。そんなことが毎日当たり前に続いていくのだ。それはとても素晴らしいことなんだろうなと思う。
いろんなことが今のままなら、このままでもいいのだろうなと思う。けれど、聡美とのこの二ヶ月がずっと楽しかったのは、そのあいだずっと仕事が忙しかったからというのもあったのだと思う。遅くまで残っている日が多かったし、外出もなくある程度集中しっぱなしで長時間働いて、かなり消耗していた。そして、昼休みや帰宅途中は聡美に長めのメッセージを打ち込んだりして過ぎていたし、家に帰っても少し酒を飲んでシャワーを浴びて寝るだけだった。たいして何かを考えている時間もなかったのだ。
前の彼女のことでうんざりしていたというのもあるだろう。別れてからしばらくのあいだ、昼休みや帰宅途中に、前の彼女とのことを毎日のように思い返していた。聡美と飲むようになってからでも、ふとするたびに、前の彼女との人生を選ばなかった自分に対してのうんざりした気持ちがぶり返してきた。聡美にメッセージを送ろうとしたり、聡美とのメッセージのやりとりを見返したりしているときにも、前の彼女のことを思い出して、自分は何がしたいんだろうなと思うことが何度もあった。けれど、それ以上に、単純に聡美とのやり取りが楽しいなと思っていたのだろうし、それがうんざりした気持ちからの逃げ場になっていたのだろう。
ここしばらく、俺はずっと腑抜けていたのだ。前の彼女と別れる流れになっていって、それと並行するように仕事も残業が続くようになって、そして彼女と別れてしまった。仕事をやっている以外は、うんざりしているか、やけになっているように無理に楽しげに話したりしてばかりで、あまり気持ちが動いていないまま毎日をやり過ごしていた。ただ、聡美には声をかけるきっかけがあったから声をかけてみただけで、その聡美との関わりと、やりかけの仕事と、そういう自分の身のまわりにあったものを、ただ自分がなんとなくよさそうに思えるように進めていただけで、仕事のことにしろ、聡美のことにしろ、自分がどうしたいのかまともに考えようともしていなかった。
そんなふうに消耗して腑抜けた俺が、今のところの聡美が知っている俺になってしまっているのだ。俺は聡美が楽しんでくれるようなことを話していただけだった。聡美の話をちゃんと聞こうとしてはいたけれど、かといって、ただ聡美が喜びそうなことをして、聡美が喜んでくれていることで自分の気を晴らしていただけだったようにも思う。
そして、聡美はそれでいいのだろうけれど、俺のほうはよくなかったなと思っている。自分にうんざりした状態で聡美と仲良くなってしまったから、自分にとって嫌な自分を相手が好きな状態になってしまった。聡美はこの腑抜けた俺でもいいのだろうけれど、俺はこの状態から少しでもましになりたいなと思っている。
もう一、二ヶ月もすれば仕事はかなり落ち着くだろうし、半年経って来年の頭には今の会社で三年になる。状況が変わっていないのなら、その頃には転職活動も始めているのだろう。自分のことを考える時間も増えるのだろうと思う。そうなったときには、今のような感じのままではいられないのだろうと思う。
延々と仕事が忙しければいいんだろうなとは思う。そうすれば、仕事で消耗して、あとは寝るまでの時間にちょっとした楽しさがあれば、それで満足していられるのだろう。それなら、仕事以外の時間を聡美と一緒に過ごして、それでちょうどよかったりするのかもしれない。けれど、そういうわけにもいかないし、俺はそんなことを望んでいるわけでもなかった。前の会社での数年間は、仕事をしていた時間が長すぎて、思い返そうにも仕事以外の記憶がほとんどない期間がかなりあった。そして、もう使わないのに、前の会社での仕事内容の詳細がまだ頭に残っていたりする。そんなふうに時間が流れてしまうのは嫌なのだ。それに、仕事というのは、だんだんと狭い範囲の中でやれることをやっていくばかりになる。やるべきことはなんとなく決まっているし、そのやり方も消去法である程度決まってしまう。仕事だけをしているのでは、同じようなことを感じているばかりで時間が過ぎてしまう。そうではなく、毎日のちょっとしたことにいろんなことを感じられるような生活というか、そういうふうにできる精神的体力的時間的余裕がある生活じゃないと嫌だなと思う。いろいろと気の向いたところをぶらぶらして、いろんなものがあるんだな、自分は何も知らないなと思いながら、ぼんやりそれを感じながら過ごしていたいのだ。気晴らしをいろいろ楽しめればいいのではなくて、いろいろ感じていろいろ考えられるのがいいなと思う。そして、そんなふうにぼんやりと考えごとをしているとき、聡美が側にいたとして、それを聡美に話せるんだろうかと思ってしまう。
今までは、メッセージのやりとりでも、飲みの席での話でも、軽く話せる話題ばかりを話してきた。仕事の話でも、俺が話すのは周囲のやる気がない人たちのやる気がないエピソードが中心で、それ以外のことを少し真面目に話すと、あまり俺の気持ちはわかってないのかなというふうに見えたりもしている。これから仕事が落ち着いて、仕事以外の話を落ち着いてゆっくり話したりするようになれば、聡美が俺の言っていることをわからないことがもっと増えてくるのかなと思う。
それでもいいはずなのになと思う。聡美とはただ楽しくやるだけで、いろいろ感じたり思ったりしたことは、そもそも聡美に向けなければいいのだ。仕事をして、その他の用事をすませて、あとは楽しい人が楽しくて心地よくしてくれるのに付き合って時間を過ごせばいい。何かを考えたくなったら、たまにひとりで本でも読みながら考えていればいいし、気持ちを揺さぶられるくらいに何かをしっかりと感じたいと思ったら、たまにひとりで映画を観に行ったり、ひとりで音楽を聴いていればいい。誰かと思いっきり喋りたくなったら、どっぷり話し込める友達と飲みに行けばいい。そして、全力になりたければ、仕事で全力になればいいのだ。聡美以外で消耗するくらいに集中して、その残りの、一息ついてのんびりと気を楽にする時間を聡美と過ごせばいいのだろう。付き合う人は、一緒に生活を楽しむための相手でよくて、すべてのいろんな気持ちで関わる相手でなくてもいいのだろう。
けれど、聡美の前に付き合っていた人と一緒にいたときだって、そんなふうに思ってきたのだ。頭ではそう思っていたのに、気持ちは物足りなさで沈んでいってしまった。生活している中で、何かを感じたり、それについて自分なりに有意義に思えるようなことを考えたりできたなと思うようなことがあっても、その人と一緒に過ごすたびに、自分がいろいろ思ったことは自分とは関係がなかったかのように、一緒にいる週末のあいだ、ずっといつもどおりの時間が流れていく。ひとりになってぼんやりするたびに、自分が何かを感じた気になったことが、まるまるどうでもいいことだったんじゃないかというような気持ちになっていた。いろいろある自分と、いろいろある相手とで、お互いに今の自分がいろいろ思うことを持ち込んで、今のいろいろな気分のまま過ごすことが、どうしてできないんだろうかと思っていた。
(続き)
(全話リンク)
この作品よりあとに書いたものなので、こちらのほうが面白いです