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国府達矢の弾き語りライブの「廻ル」はすごすぎた

以前、国府達矢がライブのときに、次の次の次のアルバムとして、「ロック転生」リリース後にエレキ弾き語り中心のライブでやっていたような曲たちを出したいというようなことを言っていたけれど、「スラップスティックメロディ」を聞いていると、「廻ル」に関しては、本来その次の次の次のアルバムに入っていてもおかしくない曲だったりもしたんだろうなと思った。

俺がそう思うのは、ライブでの「廻ル」に何度も圧倒されてきて、その圧倒され方が、「ロック転生」リリース後にエレキ弾き語り中心のライブをやっていた頃の曲に圧倒されていた感じと近いからなのだと思う。

きっと、「スラップスティックメロディ」でしか「廻ル」を聞いていない人からすれば、「廻ル」は違和感なくアルバムに収まっているように聞こえているのだろうと思うし、俺からしても、「スラップスティックメロディ」に収録されたバージョンだと、「青の世界」なんかと世界観が近いような、むしろこのアルバムの中心になる曲の一つのように聞こえている。

けれど、とくにエレキ弾き語りのライブでの「廻ル」というのは、聞き終わったあとに、揺らぶられすぎて曲の印象がばらばらにしか残らないくらいに、猛烈なエネルギーを放っている曲だったのだ。


俺が「廻ル」を最初に聞いたのは2013年の11月の「宇宙旅行+α」というイベントだったのだと思う。

その日のライブでは、「日捨て」を初めてやる新曲だと言ってやっていて、「廻ル」はそういうことは言わずにやっていたから、それまでにもやっていたのだと思う。

俺も久しぶりの国府のライブだったけれど、そのときのライブの前に、「国府達矢ライヴ三年半ぶり」と発信していたようで、三年半前だと、2010年前半くらいということになるけれど、確かにその頃とかその前くらいは、ずっと残業時間が長い働き方をしていた頃で、国府のライブがあっても気が付いていなかっただろうなと思った。

とはいえ、2011年5月がロックブッダ名義の「+1Dイん庶民」の発売で、それはタワレコで買って聞いていたし、昔の同居人とか、他にも国府を聞かせてライブにも行くようになった友達とかも入手していたから、国府すげぇというやりとりをしていた。

スヌーザーにもインタビューが載っているのを読んだ気がする。


俺は七尾旅人のウェブサイトに載っていた「ロック転生」の推薦文を見て、タワレコに視聴しに行って、すぐにCDを買って、それから国府のライブに行くようになったのだけれど、ライブはCDとは全然違っていて驚いた。

CDでの鳴り方もすごすぎて、「ロック転生」は今でもずっと聞いているくらいだけれど、ライブでは弾き語りだったのもあって歌の比重が大きくなっていて、「ロック転生」はむしろ歌の重みを抑えていることで異様なまでにタイムレスな作品になっていたりするから、そのギャップがすごかった。

そして、ギャップに慣れたとしても、ライブでの国府の歌はすごすぎて、ギターの鳴りもすごすぎて、ライブで聞くことができる新曲たちにも圧倒されて、そこから何年か、仕事が忙しくなるまでは、ライブがあるのに気が付いたら行くという感じで、だいたいの都内の国府のライブに行っていたのだと思う。

2013年の11月のライブは土井玄臣さんと一緒にやったもので、先に土井玄臣さんが出てきたけれど、国府達矢のリハを見せてもらってたけど、マジでやばかったというようなことを言っていて、その言い方がマジでやばかった感じの言い方で、国府のやばい感じはすぐに思い浮かぶから、ほんとやばいんだよねとにやにやしてしまっていた。

土井さんのライブは、初期から七尾旅人を好きな人としてはすんなりと気持ちよくなれる感じの曲をリラックスした感じにやってくれていて、自然とこちらから寄り添うような気持ちになって聞いていられたし、とても気持ちのいい時間だった。

そして、俺からすると久しぶりの国府達矢が現れたけれど、久しぶりだったし、前に見たときは、いい歳だとしても見た目も佇まいも青年っぽかったから、けっこうギャップにびっくりした気がするけれど、ギターを鳴らし始めると、まったく国府は国府のままだった。


その日、初めて「廻ル」を聞いたけれど、曲が始まって、体を揺らして乗るには幅の大き過ぎるうねり方で、じりじりと高まっていって、そして、サビがくるのかなと思ったら、音を待ちながら止まっている国府を中心に真空になったみたいに、そこに吸い込まれるような感覚になって、ギターと国府の声にぞくぞくきているのを感じていたら、いつの間にか自分の体が三十度以上とか傾いていて、そのまま倒れそうになって体勢を直さなくてはいけなくなった。

何だったんだろうと思いながら、また国府を見詰めながら、自分の心よりもゆっくり進む曲に、だんだん心を遅くされていくような感覚になりながら、またサビがくると思っていたら、まっすぐ国府を見ているはずの自分の体が、また同じ方向に傾きだして、わけがわからなくなった。

体が傾いてしまったのは何だったんだろうと思いながら聞いていたのだ。

身構えて体を固くしていたわけではないにしろ、ちゃんと体を起こした状態にはしていて、それでも、一番のサビと同じように、二番のサビでも俺の体はまったく同じ感覚で傾いていったのだ。

すごすぎると思って、本当に驚いたし、こんなことができるものなのかと、畏怖みたいな感覚で身震いしていた。


俺にとっては、その日のライブは、「日捨て」を始めて聞いたという以上に、「廻ル」を初めて聞いた驚きがとにかく印象に残ったものになった。

そして、すごかったなと思いながらも、久しぶりのライブということだったけれど、いまだにこんなにすごい曲を作って、すごい演奏もできているのに、もっとどうにかならないものかともやもやさせられたライブでもあった。

そして、そのあともライブで何度も「廻ル」を聞いていたけれど、ライブでは、サビがくるたびに、時空が歪んで、時間の流れの速さが変わって、自分の体が倒れていった。

サビが始まろうとする瞬間に、時間の流れが変わるというか、時間が流れなくなっていくような感覚になって、そこから国府の声とギターの音が自分を通り過ぎていきながら、自分が丸ごとねじれていくような感覚になっていたのだ。

それはまるで、会場の時空が渦を巻いて歪んでいって、その歪んでいく形に自分の体も渦に巻かれて倒れていくような感覚だった。

鼻血が流れたり、涎が垂れるように、いつの間にか自分の体がそうしようとしてそうなるように、腹側とも背中側というわけでもなく、体ごと倒れていった。

きっとそれは梅干しを想像すると口が酸っぱいときのようになったり、痛そうな光景を見ると自分も痛い気がするみたいなことだったのだろう。

肉体の自動的な機能として、体を自分が外界から体感している内容としっくりくる状態になることで、自分の置かれている状況にしっくりきやすくするというのがあるのだろうけれど、俺はそのとき、国府によって、その場がねじれて回っていくのを感覚的に体験させられていて、俺の体はその体験を自分の体に反映させて、廻っていこうとして倒れていっていたのだ。

そんな感覚になるのも、そんなふうにその曲を聞くたびに身体感覚に直接影響を与えられるのも初めてだったし、それが完全に再現性があるというのは、あまりにも異様なことだった。


そして、その異様さというのは、いかにも国府達矢のライブならではのものでもあったのだ。

特に、「ロック転生」のリリース後の弾き語りでのライブというのは、そういう異様さに身震いするような曲が次々と演奏されていくものだった。

ポップソング的な枠組みからはかなり外れた感じの曲が多かったし、だからこそ、聞こえ方として曲の成り立ち方が異様なものになっていた「廻ル」も、その頃のニュアンスを強く感じて、その頃の曲が収録される次の次の次のアルバムに入っていてもよかったんじゃないかと思ったのだろう。

「あ」とか「あぁ」とか、そのあたりの曲は特にポップソングっぽくない形をしていたけれど、
人がそこに立っていて、人が歌い始めて、声が一つの景色を作り出してその場を通り過ぎさせて、そういうものが通り過ぎていくときの情感のまぶしい洪水みたいなものが何度か放たれて、それを一曲とするような、そういう作りの曲が新曲としてどんどんと演奏されていた。

あのころ、吉祥寺マンダラ2に行くたびに、そういう曲たちの、始まりだったり、サビだったり、いろんな歌い始める瞬間に戦慄させられていたし、その声がそんなふうに響いていることに感動していたなと思う。

そういう時期のあとのほうだと、「はっぴーされんだー」のようなポップソング的な形式を踏まえた曲もでてきたけれど、そういう曲にしても、弾き語りのライブで初めて聞いていたし、弾き語りのライブは、聞いている側の時間感覚が国府の呼吸になってしまうような、曲を聞かせてもらっているというのとはかなり違った体感でしか聞いていられないようなパフォーマンスだった。

「はっぴーされんだー」は、その後ライブでデモ版のCDをもらったけれど、デモ音源だからというわけでもなさそうな感じで、歌やギターの響き方というのが、ライブで弾き語りしているものとは、やっぱり何によってその曲を成立させるのかというバランスからして違っていた。

とはいえ、「はっぴーされんだー」と「ノックだよ!全員集合」が収録されたそのでもCDは、いまだに聞いているし、携帯電話にも入れて、外でもたまに聞いたりしているし、その頃の国府のあの感じが、とてもいい曲として結実した感じで、本当にいい曲だし、どちらもライブだともっといいから、いつもライブでやってくれるととてもうれしかった。

そのあたりの曲までが、国府が話していた、次の次の次のアルバムの曲ということなのだろう。

そこから、だんだんと俺はライブにしばらく行けなくなっていったけれど、国府のほうも徐々に「ロックブッダ」の制作に没入する時期になっていったのだ。


「廻ル」が実際にどのあたりで出来た曲なのかというのはともかく、国府の昔のライブに行っていて、そして、「廻ル」のライブ版で空間がまわり始めるのを体感した人なら、特に弾き語りのときに爆発しがちだった、そういう国府の演奏の異様な響き渡り方と、それがあったうえでの曲の成り立ちみたいな意味で、「廻ル」がその頃の成分が多いというのは、何となくわかってくれるんじゃないかと思う。

そして、そういう意味では、俺が同じ日に初めて聞いた「日捨て」という曲は、「ロック転生」から「ロック転生」後のライブ、「ロックブッダ」と続く流れの、みんなが聞いたことのないものを聞かせてやろうというようなモチベーションが中心にあった曲たちとはまったく別の届き方を求めて作られた曲だったのだと思う。

俺は国府の曲は、「ロック転生」にしても「ロックブッダ」にしても、聞けば聞くほど歌詞を忘れていっているのだけれど、歌詞を媒介にしたイメージを積み上げるようにして曲が作られている度合いが低くて、楽器の鳴りがからまりあって高まっていく勢いに曲が従わされていて、言葉は演奏の昂揚を追認しながらそれに浸るために歌われているようなもののように感じてきた。

「日捨て」はまったくそういうものではないし、初めてあの日のライブで聞いたときも、普段から歌詞を聞こうとしている感覚の薄い俺でも、自然と歌詞をしっかりと受け取っていた。

そもそも音楽でやろうとしていることが違っているタイプの曲だったのだろう。

そういう意味では、「日捨て」もアルバム「音の門」よりけっこう前からやっていたけれど、「日捨て」の場合は、むしろ、「日捨て」ができたから、その流れで「音の門」ができていったという感じだったのかもしれない。


あのライブというのは、ちょうどそういうタイミングだったということなのだろう。

俺にとって数年ぶりの久しぶりの国府達矢は、「ロックブッダ」をレコーディングして、ミキシングも一度完了した次のフェーズに入った国府達矢になっていたのだ。

そして、次のフェーズにいる国府達矢から受け取った2つの新曲は、どんなふうにその曲がそういう曲として成り立っているのかというところから、あまりにもまったく違っている2曲だった。

けれど、俺にとってはその日が「廻ル」と「日捨て」を初めて聞いた日だったけれど、その日の時点で、「日捨て」は新曲で、「廻ル」はそうではなかったのだ。


「スラップスティックメロディ」の詳細情報が発表されたとき、そこに「廻ル」が入っていることに、少し驚いた記憶がある。

あの曲をCDで聞くのか、という感じがしたのだと思う。

そして、「スラップスティックメロディ」を入手して、再生して、3曲目になって、どうだろうなと思いながら、サビがきて、自分の体が傾いてはいかないことを確かめて、そうだろうなとは思いつつも、みんなもっとライブを見に来てくれたらいいのになと思ったのだと思う。


「ロックブッダ」は再生されて最初の一音からあきらかにすごいけれど、「スラップスティックメロディ」はそういうタイプの作品ではなかった。

けれど、俺はCDを聞くまで、ずっとライブのすごすぎる「廻ル」しか聞いていなかったのだ。

「ロック転生」とライブでの「ロック転生」の曲がかなり印象が違って、けれど、録音の「ロック転生」が最高であるように、録音は録音でベストな聞こえ方を探っていくものなのだろうし、「スラップスティックメロディ」は今でも聞いているし、いい作品だと思う。

けれど、異様な体験というのがあって、俺にとって国府達矢はそういうものと結びついていて、だから俺にとっては「ロック転生」と「ロックブッダ」が突出して好きな作品で、国府のライブをもっとみんな見に行けばいいのにと、ずっと思ってきたのだ。


また改めて、「スラップスティックメロディ」の中での「廻ル」についてとか、国府達矢のバンドでのライブと弾き語りライブでのすごさがそれぞれどういう種類のものであったのかということについて、書ければなと思う。

特に、2018年の6月に渋谷WWWでやっていたSCRAMBLEでの国府達矢バンドの演奏は、バンド演奏の国府達矢として最高のものだったし、その日の「廻ル」は、バンド演奏での「廻ル」では、聞いた中で最高だった。

俺は自分が好きなものが好きなだけで、音楽自体が好きなわけではないタイプの、どうしたって信用ならない聞き手ではあるけれど、かといって、俺からすれば、どういうつもりでもない眼差しで世界を見て、ただ世界がそんなふうであることに、本当にそうだなと思って感動したいのなら、国府達矢のライブほどすごいものなんてそうそう体験できないんじゃないかと思うくらい、国府達矢のライブはすごかった。

好きとか嫌いかと、いい曲とか、刺さるとか、心を揺さぶられるとか、そういうことも意識しないまま、国府があんなふうに音を鳴らし始める一瞬に、こんな人がいるのだと、そのことに心が震える。

世界とはそういう人がいる場所でもあるということを思い出させてくれるのだ。

聞けば聞くほど国府の歌の歌詞を忘れていっている俺は、国府達矢の音楽のいい聞き手ですらないのだろう。

それでも、そんな聞き手にとってすらそういう存在となってしまうようにして、国府達矢は異様なほど特別な存在なのだ。

世界には、七尾旅人以外に国府のことを異様に特別だと思っている人がいないんじゃないかと思っている人がたくさんいるのかもしれないけれど、それはその人たちが国府の最高なライブを見に来て、無心になって国府の歌やギターの響きに愕然とさせられ続けるような時間を過ごしたことがないからなのだ。

特別な人間というのは実在する。

そして、俺にとってはそれは国府達矢だけれど、別の人にとっては、思い込みを超えてどうしようもなく特別にしか思えない人が別にいるのだ。

世界はそういう特別な人が偏在していて、そう考えたときにだけ、世界には損得や利害や好き嫌いや身内感覚を超えた、神秘と思えるほどの輝きが実在しているはずだと思えるのだと思う。


(続き)


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