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【小説】つまらない◯◯◯◯ 20

 ビールを飲んでグラスを置くと、聡美が缶から注ぎ足してくれて、すぐにもう一口飲んだ。
「おいしいね」
 俺がそう言うと、聡美も一口飲んで「うん。おいしい」と言った。
「もうそれで終わりだけどね。でも、さっき買ったのもあるし」
「これ見たことない」
「デパ地下とかはよく置いてるよ。俺はそこの信濃屋で安売りしてるのを買ったけど」
「そうなんだ」
 聡美は缶を手にとってラベルを見ていた。視線が穏やかな感じで、口がほんの少し笑っていた。
 もう付き合ってしまっていることになっているけれど、俺からすると、とりあえず一緒に時間を過ごしてみて、そこで感じたもので、付き合っていけそうかどうか考えるというのが自然な流れなんじゃないかと思ったりする。今まで付き合うだとかそういう話は一切していなかったのだ。お互いの恋愛の話もほとんどしていない。聡美のほうはまったくしていなかったし、俺のほうも前の彼女のことを少しと、あとは俺が相手に嫉妬しないとか、浮気されても平気だというようなことは話したけれど、それくらいだったと思うし、それにしたって話は深まらないですぐに次の話に流れていった。
 俺が料理をするという話はした気がする。彼女が来たときには俺が作るばかりだったりとか、友達と一緒に住んでいたときも、料理を作るのは俺の役割だったという話もしたような気がする。けれど、聡美は俺が料理をするのが趣味で、人に作ってあげるのが楽しい人だというふうに聞いていたのかもしれない。
 俺のことをどんなやつだと思っているんだろうなと思う。俺が相手に自分の世話を焼いてほしいという気持ちがなかったり、世話焼き以外の何であれ自分のために何かをしてほしいという気持ちがなかったりするとは思っていないのだろう。俺が嫉妬しないという話から何か思ったりしたのだろうか。俺の恋人に対しての心理的な距離感のようなものについて、どう思ったのだろう。俺のために何をしてほしいわけでもなくて、相手の好きにしてくれるのが俺にとってはいいことだから、他の人に興味を持ったり、浮気したりするのも、相手の好きにしてくれればいいと思っていたのだけれど、そういうふうには受け取っていないのだろうなと思う。
 俺は二十歳前に初めて女の人と付き合ってから、今までまともに嫉妬をしたことがなかったように思う。実際に彼女が他の人と寝ても、楽しかったならよかったねというのが思うことのほとんどだった。俺は嫉妬という感情が実感としては理解できなかった。そして、付き合っている相手から嫉妬の感情を向けられるとその瞬間に嫌な気持ちになって、少し相手を軽蔑してしまったりしていた。冗談っぽく言われたとしても、その言い方の中に苛立ったものを感じると、その苛立ったものを向けられているのが不快で、露骨に嫌な顔を返したりしていたように思う。
 俺が付き合っている人が何をしていても嫉妬しないということを話したとき、聡美は「私は絶対に嫌」と言っていた。俺は嫉妬されると相手を軽く軽蔑してしまうとは言わなかった。嫉妬はしないということを話しただけだったと思う。したければすればいいと思う、したいことは何でもしてくれていいってだけかな、それで楽しいなら、俺のために我慢してくれなくていいとは思う。そういうことも話したかもしれない。自分のためにそこまでしてくれる必要はない、俺が他の人と比べてそこまで素晴らしいものってわけでもないんだし、というようなことも言ったかもしれない。高校生くらいの頃から、誰かを妬んだり、誰かを羨ましく思ったりしたことがなかったということも話したように思う。
 嫉妬しないとか人を羨ましく思ったことがないという話を聞いて、聡美は「かわってんね」と言っていた。軽く軽蔑するような、変なやつだと言い捨てる感じがあった。俺はそのとき、聡美のことを誰かを羨んだり、嫉妬したりする気持ちが強いような人だとは思っていなかったから、そのリアクションを少し意外な気持ちで見ながら、どうなんだろうなと思っていた。
 今思えば、もう少し突っ込んでくれればよかったのだろう。そうしたら、俺はちゃんと説明しようとしたのだと思う。けれど、その話はそこから深まらずに別の話題に移っていった。そのとき聡美がどう思っていたのかはわからない。そのときは知らなかったけれど、聡美は以前に二股なり不倫なり、そんなふうに男と付き合っていたのだし、むしろ、自分が浮気の相手だったのだ。好きになった男が浮気するような男だったのをいいことに、他人を嫉妬で苦しめる可能性をわかったうえで、浮気という関係を使って近付きたい人に近付いていたような人なのになと思う。もちろん、浮気はそのときも嫌だったけれど、好きになってしまったら、嫌なことだからしないというように割り切れなかったりしたのかもしれない。そのぶん苦しんだからこそ、絶対嫌だと言っていたのかもしれない。
 けれど、俺が嫉妬しないとか、相手の浮気が平気だとか、そういうことを言う人間だということには、絶対嫌だと思わなかったのだろうか。嫉妬心がない男というのはそこまで珍しいわけではないのかもしれないし、俺が嫉妬しないというのは俺の勝手だし、どうせ自分は浮気しないから、付き合うとしてもそこは問題にならないとか、そんなふうに思ったのだろうか。
 聡美はわかっていないのかもしれないけれど、嫉妬しないということは、嫉妬しないだけではなくて、嫉妬するべき状況で嫉妬心が発生しないような感じ方をしているということなのだ。嫉妬していても我慢してそれを表に出さないようにしているということではなくて、そもそもそういう気持ちが湧いてこないのだ。自分に向けられるべき感情が他の人に向けられていても裏切られたようには感じなかったり、自分を傷付けないようにしてほしいとか、自分が気分を害されないように気を遣ってほしいと思うことがなかったりだとか、相手が他の人と寝ても嫉妬心が発生しないようなものの見方や感じ方をしているということなのだ。けれど、聡美は俺のことをそんなふうには思っていないのだろう。
 二十代の頃に付き合っていた人たちは、どの人も、付き合っているあいだだったり、関係がぎくしゃくしだして、少し距離をおいている期間だったりに、他の男と寝たりしたことがあった。それは三人とも全員がそうだったし、付き合っている人ではない俺とセックスした人たちも、彼氏や旦那がいた人たちと、そういう相手がいてもいなくてもしてもいいかなと思えたら誰とでも気軽にセックスするような人たちだった。自分の経験としては、自分と付き合ったりセックスするような女の人ということでいえば、一〇〇%が他の男ともセックスする人たちだったのだ。嘘をつかれたり、浮気されるのが嫌だと思うかどうかとは別に、機会があったときに他の人とセックスするかどうかでいえば、現実はそういう感じなのだなと思うようになっていった。
 そういうことがあって、だんだん嫉妬しなくなっていったというわけではなかった。最初から、他の男と会っていたとかセックスしてみたという話を聞いていても、たいして心はざわつかなかった。少なくても悲しかったことはなかったし、前の前の彼女とか、何度かそういうことをしていた人が最近どういうことがあったという話をしているのを聞いているときなんかだと、まったく何とも思わなかったりした。
 まったく何も感じていなかったわけではなく、劣等感みたいなものはあったのだと思う。自分が誰か別の男と比べられたり、比べなくても、その人が自分ではなく他の男をいいなと思っていたりすると、自分が劣っていたり、自分では物足りないと思われているような不安な気持ちになったりはしていた。けれど、それは付き合っている彼女に対してだけ感じる気持ちではなかった。恋愛でも恋愛以外の場でも感じることだったし、女友達にも男友達にも感じることだったし、仕事で自分ではない他の人が持ち上げられているのを聞いても、そういう気分は自動的に湧いてきた。けれど、付き合っている人が相手だった場合に、そういう劣等感をより強く感じたわけではなかったし、劣等感という以上に相手に憎しみとか責めるような気持ちが湧いてくることもなかった。他人が俺ではない他の人にいいなと思うことは単純に仕方のないことで、それは彼女でも彼女ではない人でも同じことだと心底思っていた。
 付き合っている人が他の異性について、かっこいいとか、かわいいと言っているだけでも嫌だという人もいるけれど、そういう気持ちも俺はよくわからないなと思ってきた。誰かが誰かの姿を見たときにそんなふうに思ったりすることは何もおかしなことではないし、口に出すか出さないかの違いでしかないだろうと思っていた。口に出されると、自分と比べられているわけではなくても劣等感を刺激されてしまうし、自分の立場が揺らぐようで不安になるとか、そういうことなのだろうけれど、俺は誰がかっこいいとか、そういうことを言われても、劣等感を刺激されたりするだけで、嫉妬心のようなものは湧いてこなかった。むしろ、他の男のことを話題にすると機嫌が悪くなるからその話題は避けるようにしようと思われているほうが惨めな気持ちになるような気がしていた。
 俺がどう思おうと、相手がそう思うなら、そう思うことは仕方がないのだ。俺の機嫌なんて守ろうとしてくれなくていいし、そんなふうに俺のことを気にかけてくれなくていい。俺と一緒にいないときは俺とは関係のない時間なのだから、そこでは自分の好きにしてくれればいい。一緒にいないときに他の男と何をするとかしないとかはどうでもいいから、一緒にいるときに充実した時間を過ごしてくれればいい。そんなふうに思っていたのだろうと思う。



(続き)


(全話リンク)


この作品よりあとに書いたものなので、こちらのほうが面白いです


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