もっと殺伐とした人だと思って好きになったのに、そんなわけでもなかった彼女
(こちらの記事の続きとなります)
膝枕されたまま、手を伸ばしてグラスをとって、横になったまま、少しだけ頭を上げて、ビールを飲んだ。
聡美が小さく笑って「器用だね」と言う。
俺はグラスをテーブルに戻して、また耳を聡美の腿に押しあてて、テレビの画面を見詰めた。
俺は思い違いをしていたのだ。
聡美はもっと殺伐とした人なのだろうと思っていた。
だから近付いてみようかなと思った。
今こうして俺の部屋でふたりで過ごしていても、ふとしたときの目付きだとか、発言だとかに、殺伐としたものを感じることはある。
けれど、それが素の状態だとしても、そういう自分の中の殺伐とした気持ちのまま、その場その場でエネルギーの出し惜しみをせずに充実したいい時間を過ごせればそれでいいと思っている人ではなかったのだ。
自分の生活の中に、恋人との幸せな時間という、殺伐としていない時間を欲しがっている人だった。
聡美の素の状態での殺伐とした部分というのは、幼少期の頃からのものだったのだろうと思う。
田舎育ちで、女の子らしい遊びが物足りなくて、友達と走り回って度を越したくらいにいたずら放題しながらがむしゃらに遊んでいたらしい。
そして、真面目な教師についてピアノをやり続けていたみたいで、その中で何かにストイックに没頭して上達していく自己肯定感のようなものも深く身についていったのだろう。
けれど、それは幼少期に周囲から充分に構ってもらえて安心に育っていく中で、自分がやろうとしたことが思うようにできて、他の人よりもできて、みんなが自分のやったことを喜んでくれて、だから自分は自分の気持ちのいいことを好き勝手にやっていればいいのだと思っていられたことによる殺伐とした感覚だったのだろう。
そして、そこからの聡美の日々は、のんびり安心していられるものではなかったのだ。
いろんな嫌な出来事に傷付く中で、もともと殺伐としているものに、また違った殺伐としたものが加わっていった。
そして、安心できる相手が欲しいと思っていたのに、思うようにならなかった。
むしろ、傷付けられることの多い、報われない相手と過ごす時間が続いて、寂しさがいつまでも終わらなくて苦しかった。
早くその苦しさから楽になりたいと、ずっとそれを願ってきたのだろう。
誰かと一緒に生活して、いつも気にかけあって、優しくしあって、幸せになりたい。
聡美にしたって、そういう気持ちは多くの女の人と同じなのだろう。
むしろ、苦しくて殺伐とした気持ちの中でも、幸せにしてもらいたいのではなく、自分が誰かを幸せにしたいという気持ちをずっと手放さないできたのだし、誰よりも幸せにしてあげられるというような大きなことが言えるくらい、強くそう願ってきたのだ。
聡美の手が、俺の頭に触れてくる。
髪の中に指を入れるようにして、顔のほうから後ろに流すようにして撫でてくれる。
耳にゆっくり指が触れてくると、はっきりとした触れられた感触がじわっと広がる。
聡美は頑張ってきたのだろうなと思う。
俺が見ていたこの数ヶ月にしても、聡美は仕事も遊びもずっと頑張ってきた。
ただ寂しいから、誰かにそばにいてほしいとないものねだりをしていたのではない。
もちろん、頑張ったから報われるわけでもないし、いくら頑張ってきたといっても、聡美よりも頑張ってきた人はたくさんいるのだろうし、今以上に苦痛の多い状況になっていた可能性だって充分にあったのだろうし、今の状態でもましだったりするのかもしれない。
けれど、聡美としては、何事も思うようにはいかないことばかりで、安心できないまま、だんだんと年をとってしまったと感じているのだろう。
仕事も頑張って、周囲からも認められているし、それなりの給料をもらって、それなりの職歴を積んでいけている。
あとは生活の寂しささえどうにかできれば自分は大丈夫だと思っていたのだと思う。
思ったようにいかない日々が続いたからといって、閉じこもっておとなしくしていたら何もかも終わってしまうと思って頑張り続けて、けれど、報われない結果に終わることが、何年ものあいだ繰り返されたのだ。
疲れるほど頑張ったのに、それがいつまでも報われないと思って、だったら疲れることなんてやめてしまいたかったのだろうし、少なくても男のことで疲れるのはもう嫌だったのだろう。
そして、報われているふうに見える女の人たちは、いわゆる女の幸せをつかんだ人たちだったりもしたのだろう。
聡美は仕事にすべてを注いで仕事で心底充実できるようなコースには乗らなかった。
仕事を頑張ることをそれほど求められない毎日の中で、自分のまわりを見渡したときに、女の幸せをつかんだ人たちが目立って幸せそうに見えてくる。
自分が傷付けられない場所があるというだけで、充分すぎるほどに安らぎを感じられるように思ったのだろう。
だから、聡美はこのままじゃいけないと思って、自分の好きになった人ではなく、好きになってくれた人を好きになろうと思ったのかもしれない。
そうすれば女の幸せが自分のものになると思ったのかもしれない。
自分が好きになった人に愛してもらうことを諦めて、自分を好きになってくれた人から愛する人を選ぼうとできるほど、聡美の中の傷付きたくないという気持ちは大きなものになっていたのだ。
俺にはまったく想像もつかないことだなと思う。
けれど、それはつまり、俺には想像もつかないくらいに、聡美がこれまでに傷付いてきたということなのだろう。
聡美の手が頬に触れてきて、鼻のほうに動いてきた。
なんとなく鼻に触れられたくない感じがして、聡美の手を避けるようにして閉じた股の上に鼻先を押しあてた。
大きく息を吸い込むと、「何してるの」と言って、聡美が両手で髪を優しく撫でてくる。
また深く吸い込んで、吸い込んだものの匂いを感じようとする。
けれど、服の匂いしか感じられなかった。
もう一度吸い込んで息を止めて、頭をまわしてまたテレビに顔を向けた。
ゆっくりと吸い込んだ息を吐いたけれど、やはり何も感じなかった。
服越しでなくても、直接舌を差し込んでいるときでも、聡美の性器はほとんど匂いがしない。
単純に体質の問題なのだろうけれど、もしかするとできるかぎり自分の身体から女の臭いを消そうと念入りに洗っているのかもしれない。
実際に聡美がどうしているのは別にしても、自分の体臭とは別に、自分の男の臭いとか自分の女の臭いを区別して、それをどうこうしようというようなことがあるのだとしたら、なんとなく不気味だなと思ってしまう。
俺は自分の体臭すらまともに気にしたこともない。
足と股間くらいはしっかり洗うようにしているけれど、それ以上は気にもならない。
男なんてたいていそうなのだろう。
男の人は臭いがきつい、自分ではわかってないだろうけれど、あなただってしっかり匂いがある、と昔付き合っていた女の人が言っていた。
自分は臭いが強いほうではないらしいけれど、女の人からすれば、男の臭いというだけで充分に臭っていることになるのだろう。
男は無遠慮に自分の身体から臭いをまき散らし、女は自分の身体が女くさく臭うのを周到に隠そうとしながら、そんな大勢の男女が、相手の臭いが自分の臭いと混ざり合うまでは、お互いの臭いを蔑んだり、自分の欲望を掻き立てる材料にしながら、無言のうちにすれ違い続けている。
世界をそういうものに思うこともできるのだろう。
俺は匂いに想像力を喚起させられることが少ないから、他人の匂いが自分を包んでも、ただ漫然とその匂いを感じているだけだったりする。
満員電車で身体を押し付け合っている男の匂いや、すれ違うときやエレベーターに残っていた女の人の匂いを感じながら、こんな匂いの人なんだなと思っているだけだった。
その匂いから何かを想像したりもしないし、臭いものは臭いと思っていたけれど、あまり好きな匂いも嫌いな匂いもなかった。
(続き)