【小説】つまらない◯◯◯◯ 47
たとえば、自分が恋人なり配偶者に料理を作ってあげて一緒に食べながら、相手が「いつもこうやって美味しいご飯を作ってもらえて、一緒に食べられるなんて幸せだな」と言いながら、たいして味わっていないというような状況だったとしたらどんなふうに思うものなのだろう。相手の味覚が鈍感だということではなく、実際にいつも美味しいとは言えるくらいの料理を作っていたとして、美味しいからといって美味しいとしか思ってくれていない。試してみた味付けのいつもとの違いにも気付かない。「今日も美味しいよ。いつも美味しいけど」という感じで、今日の味噌汁は具からいまいち香りが出ていなくて、そのわりに出汁も配分が中途半端で、全体の香りとしてちょっとぼけた感じになってしまったなと思っていたとしても、「美味しいよ。昨日とそんなに違う? 美味しいじゃない」というふうに言われる。そして、それに対してこちらがいい顔をしていなくても、相手は美味しそうに食べ続ける。また次に作ったものを食べていても、同じことになる。自分としてもいい具合に作れたと思っても、自分としてはいまいちなできあがりだったとしても、「今日も美味しいよ。いつも美味しいけど」としか思っていない。
そんなふうだったときに、その人に料理を作ってあげるうえで気持ちを込めるのが難しくなってしまう人もいるだろう。そんなふうだったら、手をかけるのもばかばかしいだけだと思って、相手にできるだけ外食してもらうようにしたり、作ってあげるにしても、極力手をかけないようになったり、外で買ってきたものを出してすませるようになってしまう人だっているかもしれない。それと同じようなことがセックスで起こっているのだ。
ご飯が美味しくないから食事の時間が楽しくないわけでもなく、メニューや味付けがマンネリだから食卓を囲んだ会話が盛り上がらないというわけでもない。何を食べても美味しいと言うだけでちっとも味わっていない人と食卓を囲むのが虚しかったことで、その人に食事を作って食べさせること自体にうんざりしてしまって、その人のために料理することが億劫になってしまうのだ。
俺のセックスレスにしても、セックスが気持ちよくなかったからでもなく、マンネリで盛り上がりに欠けてきたからでもなく、感じることをやめられてしまったからだった。俺はセックスしながら、自分たちがどんなセックスができていて、それを相手がどんなふうに感じてくれているのかを確かめていたかったし、相手がこんなふうにセックスしている自分をどんなふうに感じているかを感じていたかった。気持ちよくなってほしいけれど、気持ちよくなってくれればそれで満足というわけではなった。けれど、相手はただ俺と気持ちのいいことを一緒にしているのがうれしいというだけになってしまったのだ。
食べることにあまり興味がない人だっているし、それが間違っているとは思わない。自分では食べることに興味があるつもりで、自分がどんなものをどんなふうに食べたというエピソードを集めることに興味があるだけで、食べ物自体には興味がない人もいるし、それが間違っているとも思わない。人それぞれだし、そんなふうにもの食べるようになる巡り合わせを生きてきたんだなと思うだけだろう。けれど、そういう人と一緒にご飯を食べなくてはいけなくなったなら、いくら人それぞれだとしても、それ以外にもいろいろと思ってしまう。自分が食べながら感じていることは、この人が食べながら感じているものと、初めからすれ違っているような気がして、何も言えなくなってしまう。そして、そうやって悪意のない無関心に黙らされるのが嫌で、その人に料理を作ってあげるのが億劫になるし、一緒に食べに行くのすら億劫になってしまう。
そもそも味覚障害の人もいるのだろうし、そもそも勃起障害の人や不感症の人もいるのだろう。そして、そういう人と一緒に過ごす生活は選びたくないなという人もいるのだろう。お腹がいっぱいになって、美味しいと思えればそれでいい人もいるのだろう。それと同じようにして、欲求不満が解消されて、気持ちよかったと思えればそれでいい人もいるのだろう。優しく抱きしめられて、自分が大切にされていると思えればそれでいい人もいるのだろう。自分がそうではなくて、けれど好きになった人がそういう人だったときに、どうしたらいいのだろう。
美味しいと言ってくれて、うれしそうにしてくれていのだから、それで満足しなくてはいけないのだろうか。今日の料理は今日の料理なのに、美味しいかどうかという以上に味わっている様子もなく、いつも美味しいよ、ありがとうとしか返ってこなかったとして、今日の料理を作りながら感じていたことは、まるっきり無視されてしまっているのと同じなのだ。作りながら感じることも、食べながら感じることも、自分の中に留めておいて、相手が自分の気持ちに反応しないまま自分にありがとうと言ってくれていることだけで満足するべきなのだろうか。
セックスだって同じなのだ。こちらが相手の姿や動きを確かめながら、そこで感じたことを顔に出しながら相手を見詰めていても、ただいつもどおり気持ちがいいとか、仲良くセックスできてうれしいというくらいの気分でぼんやりとセックスされてしまうと、自分の気持ちを受け取ることのない目に見詰め返されることに寂しくなり続けるしかない。それも同じように、相手が気持ちよさそうにしてくれているのだからと満足するべきなんだろうか。
そういうものだと諦めるしかなかったりするのだろう。そして、できる範囲のことをするしかなかったりするのだろう。一生懸命美味しいものを作り続けていれば、いつか食べるものがただ美味しいだけじゃなくて、どんなふうに美味しいのかにも興味を持ってくれて、一緒に今日のご飯の話ができるかもしれないとか、そんなふうに思って頑張っている人もいるのだろう。一生懸命気持ちよくしてあげて、いつもしっかり感じてあげられていれば、いつかただ漫然とセックスが気持ちいいだけじゃなくて、一瞬一瞬にお互いがどんなふうに感じ合って、どんなふうに身体を押し付け合っているから、こんなふうに気持ちよくなれているのだということを確かめ合えるようになるかもしれないと思ってセックスしている人もいるのだろう。
三年くらい前に、住んでいる部屋の近所にオープンした小さなスペイン料理屋に入ってみたとき、まだオープンしたてだったのもあってか、俺しか客がいなかった。オーナーシェフの人に料理やお酒をゆっくりあれこれとおすすめしてもらって、料理を食べながら、長々とあれこれ話をしていた。出てきた料理は値段のわりにずいぶん美味しかった。それほど高い材料が使えないなりに、スパイスやハーブの使い方だったり具材の合わせ方で、味にめりはりと奥行きが出るようにしていて、食べていて美味しいだけではなく楽しいようにバランスがしっかり作られていた。オーナーは俺より五歳くらい上の人で、今までどういう店で働いてきたとか、スペインに修行に行っていた話とか、カフェ飯としか言いようがない感じの料理を作っているだけで三十歳になってしまうような料理人は、そこから先が困ってしまうのに、若い料理人はそういうのがたくさんいるというような話をしていた。いろんな話をしている中で、そのオーナーが「食べ物に興味があるのは同業者だけですからね」と言っていた。
俺がそれなりに楽しもうとして食べているのを感じてくれていたから、そういうことを言ったのだろうけれど、別にそうじゃなくても、この人は同業者以外に対しても、そういうふうに言えてしまう人なんだろうなと思った。それを言ったときも、その前後とそう変わらない穏やかな顔をしていたけれど、うっすらと感情の冷たさが透けていた。
俺は「まぁ、そうでしょうね。興味ない人ばっかすよね」と答えた。そして、かわいそうになと思った。そういう状況はしんどいだろうなと思った。俺はその頃、事業社向けの基幹業務システムを作る会社で働いていたけれど、客との関係として、客が業務に必要とするシステムを客の要望に合わせて作るから、客がこちらの仕事のできばえの細かいところに興味がないということがほとんどありえない仕事だった。俺にとってそれはかなり大事なことだった。その前の職場では、それがあってもなくても客にとってはどちらでもいいものを買ってもらうために、あれこれ理屈をつけて話してまわっている人たちの姿を横目で見てきたけれど、ああいうことをするのは俺にはずいぶん気が滅入ることだろうなと思ってきた。あってもなくてもいいし、これじゃなくて別のものでもいいし、用が足せればよくて、細かいところはどうでもいいと思っている相手に何かを提供していたのなら、気分の悪い体験をたくさんすることになっていたのだろうなと思ってきた。だから、その後も似たようなIT系の開発の仕事で転職した。
そのオーナーシェフは、料理人になってお客さんに料理を出すようになってから、食べ物に興味のない人があまりにも圧倒的な割合なのだということに気が付いたのかもしれない。そうだとしても、どうせ興味がない人ばかりが客なのだとは思いながらも、美味しいものを作れるように修行を続けて、独立して自分の店を持って、そしてその日も自分の手で美味しいものを作って俺に食べさせてくれていた。食べている姿をはたから見ているだけでも、その人が食べることに興味があるのかどうかはなんとなくわかるものだったりする。美味しいかどうかだけで食べているのと、食べているものの感触に集中して、どういう香りと触感と味がどんなバランスに組み合わされているのかを感じ取ろうとしているのとでは、その人の中の気配は違っている。ちゃんと美味しいものを作っているから、興味のある人ならこれはいいなと目の色を変えてくれるのだろうし、自分の作ったものを食べている人たちの顔を見ながら、食べ物に興味があるのは同業者だけだという事実を確かめる毎日なのだろう。無関心なまま自分のやっていることを大雑把に喜ばれるのは、どうしたって苦しいのだ。それでもしっかりと仕事をして、実際にちゃんとそれなりのものを作れている自信があるから、たまに俺のような単純に食べるのが好きなやつがくると、にこやかにいろいろ話してくれるけれど、どうしたって気持ちが冷たくなることはたくさんあるのだろうなと思う。
興味とはそういうものなのだ。自分で食べることに興味がないと言っている人はもちろんそうだし、食べるのが好きという人であっても、その大半は食べ物に興味がない。どこまで感じ取ることができるかは別にして、おいしいかどうかではなく、それがどんなふうにしてこんなふうなのかを感じようとしていないのなら、興味なんて持っていないのだし、感じるものに受け身になって頭を空っぽにできていなければ、まともに感じることなんてできるわけがないのだ。
(続き)
(全話リンク)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?