おもしろくない日々
おもしろくないなという日々が続いている。
朝起きて顔を洗って出掛けて時間を潰しているうちに夜になっている。
本屋に行っても読みたい本が見つからない。
夜ご飯をつくろうにも気力がわかず外食かコンビニを選ぶ。
惰性で入れたマッチングアプリに時間を溶かしてはいい人とマッチする見込みのなさからアカウントを削除する。
何をやってるんだろ、と思う。
夜は何度か起きてしまい、そのたびに目を閉じてまた眠りにつく。当然睡眠の質は良くなく、朝起きると顔がパンパンである。
家族に会うと、昨日泣いた?と言われる始末。
家族に会ったところで特に何か発言するわけでもない私は、自分のことをつくづくつまらない人間だなあと思って落ち込んで疲れる。
そんな繰り返しである。
そんな日常にも、おいしいものや、楽しそうなものに出会えるときというのもあって、それは本当にありがたいことなのだな、というのを実感する。
通い始めたリワークで、鉄印帳というのを知った。御朱印帳の真似で、全国各地の指定のローカル路線駅にて鉄印がもらえるらしい。都心近くではいすみ鉄道、真岡鐵道、わたらせ渓谷鉄道などがあり、私は、まずは、今度行く長崎、福岡で試してみようと思っている。
大学院に行って、心理学を勉強しようと意気込んでいた時や、生物学、環境学、脳神経学にまで興味を持っていた時、本を大量に買って読み込むのが好きだった時、人と喋りたくてたまらなかった時、人と喋ることがたくさんあった時、そういう過去のことを思って、辛くなる。
辛くなっても、いまの自分は、寡黙で、疲れやすくて、何かを読みたいけど何も読みたいものはなくて、風呂上がりのベッドに飛び込む時間が好きだけど風呂に入るのが面倒くさくて、恋愛がしたいけど自分をよく知ってくれている人との恋愛でないとうまく行かなそうであることや今の自分に恋愛は必要なさそうであることがわかっていて、そしてたまにこうして無性に文章が書きたくなる、そんな自分でしかないのだから、どうしようもできないのだけれども。
それでも、何が私をこうしてしまったか、とか、どうすればよかったのか、と、答えを探そうとしてしまう自分もいる。
最近は、決して会話力が戻ってきたわけではなく、ただ単に会話がうまくいかなくなった自分のことを諦めている節がある。リワークでおしゃべりが弾んでいる人の会話を横に、私もあんな時あったな、ああやって明るく喋れたらな、と1人黙々とケータイをいじったりぼーっとしたりしている。当てられれば、それなりにハキハキと喋れるが、大して面白い話はできない。友人とは、気を利かせてたくさん喋ってくれる相手であれば、それなりに話に乗っかって楽しく喋ることができる。他人からしたらリワークでの様子は、大勢の場で人見知りをかまして、1人閉じこもっている人のようにしか見えていないと思うし、それならそれで良い、と思うことにしよう、と考えている。本当はもっと明るくいろんな話ができたら楽しいのだろうな、と思う。昔から雑談が苦手で、でも、特定の子とは打ち解けてたくさん喋れた。今は、特定の子、というのがもっと限られて、昔から付き合いがあって、私の病状を理解してくれていて、沈黙やどもり、説明のしづらさなどを気にせず会話できる相手とじゃないと、楽しく気ままに会話できなくなっている気がする。
ただ、以前喋れなくて辛いと書いた頃よりかは確実に喋ることへの自信が戻りつつあるし、日常困ることも減ってきている。
自分にとっておもしろいというのは、やはりいろんな人と楽しく喋れている実感が必要なのかもしれない。今は1人でぼーっとしたり、じーっとしたり、何か検索したりする時間が多く、おもしろくないのじゃなかろうか。
私は、25歳の自分を大切にできているのだろうか。私は、自分を誇って生きているといえるのだろうか。日常がおもしろくないだなんて、日常を屍といっているようなものだし、自分を粗末に扱っている人の発言としか思えないのだ。私は、自分を大切に、誇って生きていきたい。うつ状態にしては希死念慮というものが出てきたことがなく、それがありがたかった。しかしいまの自分は、日常の自分をないがしろにすることで、自分の辛さから目を背けている気がする。何も、自分の辛さと直面する必要もないのだが、自分の辛さというのは、ニュアンスでしか説明できないのだが、その積み重ねや説明のしづらさから、気分や体調が良好なわりには、ずっと付き纏っている何かがある気がしてしまう厄介な辛さである。リワークで気分や体調を聞かれた時なんかには、気分や体調はとても良いです、といえるが、そこには含みきれない辛さがある。こう書き殴ってみると、自分の辛さは、やはり会話を思う存分にできていない辛さなのかもしれない。
辛い辛い、おもしろくないおもしろくない、なんて否定的で厭世的な日記なのだろう。
私は、助けて、の4文字が言えずにこの日記に託しているのだろう、私にとって日記は、おもしろくない日常を大切に扱うための唯一の手段である。私のおもしろくない、辛い、という感情を記録してくれる、お助け道具である。
だから、これをあとから読んだ自分には、こう思って欲しい。
わたしのおもんない、辛い日常をささえてくれるものたち
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