指輪事件
「痛恨のエラー」をテーマにエッセイを書いてみようと思ったとき、ふと頭に浮かんだのは原田宗典のエッセイだった。彼の書くエッセイは、自分がいかに失敗と挫折や恥の多い人生を、生きてきたかを赤裸々に語っている。中には口にするのをためらうようなエッチな話やびろうな話題も多い。たしかに他人の失敗談や困惑話というのは、読んでいて楽しいものだ。だがそれだけではない。「よくぞ言ってくれた。僕もそう思ってたんだよ」と、こちらの言いにくいことを語る潔さもある。彼はこうも言っている。「文学は『おりこうさん』の範内に物書きが収まってしまっているから衰退するんだ。ぼくは思う。みんなねー、そんな難しい顔したり頭よさそうな顔したりしないで『歌って踊れる文学者』とか『鼻からうどんを食う小説家』とか『ケツから火を噴く詩人』とか、そういうバカなものを目指してみたらどうだろ」と。自分の恥を文章にして世間の目にさらすのは勇気のいることだと思う。そんな彼の勇気に拍手を送りたい。
さて前置きが長くなってしまったが、僕の痛恨のエラーの話である。僕は生来のおっちょこちょいで、よく考えもせず行動してしまう質の人間なのだ。仕事上のミスも多く、酔ったうえでの失態は数知れない。それを勇気を振り絞って書かねばならない。しかし、一番すごいヤツは ちょっとすごすぎて書けないし、二番目のヤツも、かなり恥ずかしい。そうなると三番手くらいで軽くジャブを打って、この場をしのぐことにしようか。
今から三十年前、僕の結婚式での話である。緊張しぃの僕は、神聖な儀式でカチンコチンになっていた。さんざん練習したにもかかわらず、詔(みのこのり)を読み間違え、緊張はピークに達していた。早く式を終わらせたいと思っていた。そしてお決まりの指輪の交換の場面がやってきた。その時、僕は右手を花嫁に差し出してしまったのだ。それに気づかず、僕の右手の薬指に指輪をぐいと押し込む花嫁。
式を終えてほっとしている僕に、担当してくれた女性スタッフは「正田さん、やっちゃいましたねー」、そういわれて初めて自分のしでかした間違いに気づく始末である。僕は自分のアホさ加減にまたしょげる。彼女は「でもよくあることですから」と慰めてくれたが、彼女の肩が細かく震えているのを見逃さなかった。式をライブ映像で見ていた友人たちも「やっぱり、正田はしでかした」とはやし立てられ、機転の利く友人は披露宴のスピーチでも指輪事件を披露し皆を笑わせた。それから、ことあるごとに指輪事件を話題にされ、その都度、僕は痛めつけられるのだった。
その指輪であるが、このエッセイを書いていて思い出した。陶芸を始めるようになって、作品に傷がついてはいけないと、指輪を外しているのだ。はて、それをどこにしまったのか思い出せない。また嫌な予感がする。
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