『正法眼蔵』読解と『御抄』私訳
正1-8『第一現成公案』第八段〔仏道を習うとは、この身心を実践することである〕
〔『正法眼蔵』原文〕
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法 に証せらるゝなり。
万法に証せらるゝといふは、自己の身心をよび他己タコの身心をして脱落せしむるなり。
悟迹ゴシャクの休歇キュウカツなるあり、休歇なる悟迹を長々出チョウチョウシュツならしむ。
〔抄私訳〕
別に子細はなく、文の通り理解すべきである。「悟迹の休歇」(悟りの跡形の休み)とは、迷と悟を相対アイタイして説く時は、確かに迷と悟の境目があるが、ここでは、悟りの跡形ということはおおよそあるはずがない。もっとも、「休歇なる悟迹」が際限の無い所を「長々出」と言われるのである。「休歇なる悟迹」(休んでいる悟りの跡形)は、太古より本来具有している悟りの跡形と理解すべきである。
〔聞書私訳〕
/特別の事情はない。現前するあらゆるもの〈万法〉によって現前するあらゆるもの〈万法〉とこの身心〈自己〉が一体であることが明らかにされる〈万法に証せられる〉ことが、脱落なのである。この身心〈自己〉は、吾我〈実在していないが、思いの中で在ると錯覚している自分〉の自己ではない。「忘れる」とは、事に触れずして知るほどの「忘れる」である。「悟迹の休歇、休歇なる悟迹」(悟りの跡形の休み、休んでいる悟りの跡形)と交差させるのは、悟の後に休歇(休み)があると言わず、休歇が悟りであるからこのように言うのである。悟の跡はこれほど、悟はこれほどと言うくらいであれば、悟の跡形があることになる。また、休んでいない時はないから、「休歇なる悟迹を長々出」〈休んでいる悟りの跡形を際限無く行じていく〉と言われる。この「長々」は長いということではなく、その事に長じていることである。例えば、徳の勝れている人を長者と言うようなものである。
また、「諸悪は莫作マクサ」(諸悪はなすことができない)・「莫作は諸悪」(作すことができないのが諸悪である)、「衆善は奉行」(衆善は奉行せざるを得えない)・「奉行は衆善」(奉行せざるを得ないことが衆善である)と同じように〔「悟跡の休歇、休歇なる悟跡」を〕理解すべきである。「長々出」は、「休歇なる悟迹」の全体を「長々出」と言うのである。
『正法眼蔵』私訳〕
仏道を習うとは、この身心〈自己〉を実践することである。(仏道をならふといふは、自己をならふなり。)
この身心〈自己〉を実践するとは、自分は実在しておらず、思いの中で在ると錯覚している自分でしかないことに気づくことである。(自己をならふといふは、自己をわするるなり。)
自分は実在しておらず、思いの中で在ると錯覚している自分でしかないことに気づくとは、現前するあらゆるもの〈万法〉によって現前するあらゆるもの〈万法〉とこの身心〈自己〉が一体であることが明らかにされる〈証せらるる〉ことである。(自己をわするるといふは、万法 に証せらるゝなり。)
現前するあらゆるもの〈万法〉によって現前するあらゆるもの〈万法〉とこの身心〈自己〉が一体であることが明らかにされる〈証せらるる〉とは、自分の身心と他者の身心とは別ものだという錯覚から脱け落ちることである。(万法に証せらるゝといふは、自己の身心をよび他己の身心をして脱落せしむるなり。)
悟って悟りをすっぱり忘れ、悟りの跡形が休んでいるということがある、(悟迹の休歇なるあり、)〔一休は言った、「悟などといふ不調法ブチョウホウ、いたしたる覚え無き之れ候ソウロウ」と。〕
太古より本来具有している悟りの跡形をただどこまでも行じていくだけである。(休歇なる悟迹を長々出ならしむ。)〔何も求めず、何がどうなっていようとも、うまくいってもいかなくても、ただ坐る、ただ坐禅する、只管打坐シカンタザをどこまでも行じていくだけです。〕
注:《 》内は御抄編者の補足。〔 〕内は著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。
合掌