『正法眼蔵』読解と『御抄』私訳
正1-1『第一現成公案』第一段 すべては仏法である
『正法眼蔵』原文〕 諸法の仏法なる時節、
すなはち迷悟あり、修行あり、生ショウあり、死あり、諸仏あり、衆生シュジョウあり。
〔御抄私訳〕 「諸法の仏法なる時節」として示すのは、森羅万象シンラバンショウが皆仏法だと説く時節〈存在と一体である絶対的な時=有時〉を言うのである。迷より衆生まで、上に七種を挙げられた。森羅万象(諸法)をことごとく挙げるべきだが、そのように書き尽すことはできないので、省略されたのである。しかし、挙げる法〈ダルマである存在〉の数が少ないからといって、不足を言うべきではない。ただ初めの「迷」という一つの法が究め尽くす時は、挙げる法の数が多くないからといって、決してその理(ことわり)が違うことはない、一つか多いかの数に拘らないからである。仏法の道理はこのようなものである。
この迷悟有りから衆生有りまでの「有り」は、無と相対アイタイする有りではない。しかし、仏法上で「迷・悟、諸仏・衆生」と言うからには、「有り」と言っても支障はないのである。「諸法の仏法なる時節」とは、仏法である時の法〈ダルマである存在〉について説かれるのを、世間の我々の考えをつかんだままで理解しようとするのは、丸い穴に角材を入れようとするのようなものである。
〔ここまでの前文が経豪キョウゴウ和尚の「御抄」です。次段からの/印の文が詮慧センネ和尚の提唱部分で、経豪和尚がいわゆる聞書した内容と判ぜられます。これらの師説を受けて、前文で、経豪和尚は「抄」文を著したわけです。聞書には、詮慧和尚が元天台学僧であったことから、天台教学を批判しつつ、永平開山の仏法を宣揚している箇所が頻出しますが、御抄になるとそういう所は影をひそめ、もっぱら師説を踏まえて正法眼蔵そのものの宗旨を解明することに集中していることが文面から伺われます。〕
〔聞書私訳〕 /第一段の「諸法の仏法なる時節」(森羅万象が皆仏法である時節)は、「是れ什麼物ナニモノか恁麼インモに来キタる」〈是れと呼ばれるすべてのものは何物〈仏性〉がこのように現成しているのである〉である。第二段の「万法マンボウともに我にあらざる時節」〈あらゆるものが皆、無我である時節〉は、「一物を説示セツジせんとするも、即ち中アタらず」(一つのものを説き示そうとしても、的中しない)にあたる。そうであるから、両段の心は一つとなるのである。
/「諸法有り」(森羅万象が有る)とは、例えば「即心即仏」(心こそ仏に他ならぬ)である。「諸法無し」(森羅万象が無い)とは、「非心非仏」(心に非ず仏に非ずで、即心即仏と同じこと)である。〔同じ道理を違う言葉で表現しているだけである。〕
/「生あり」とは、「生也全機現ショウヤゼンキゲン」〈生は全宇宙のはたらきの丸出し〉である。「死あり」とは、「死也全機現シヤゼンキゲン」〈死は全宇宙のはたらきの丸出し〉である。
〔『正法眼蔵』私訳〕
森羅万象が皆仏法である時節、
(諸法の仏法なる時節、)
即ち、迷悟が有り、修行が有り、生が有り、死が有り、諸仏が有り、衆生が有ると言うけれども、仏法上で言うので支障はないのである。
(すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。)
〔『正法眼蔵』評釈〕
一般に言う「諸法」と、仏法に言う「諸法」とは違うのです。一般に言う「諸法」は、こちらに自分がいて向こうにものがあると見るのですが、「仏法なる時節」には、向こうにものがあると思われているものは、そうではなくて、それは身心の今のありようなんだよ、法身の今の様子そのものなんだよ、それが「諸法の仏法なる時節」なんだよと、道元禅師はおっしゃるのですね。
この身心のすべてのはたらきが、仏法で言う「諸法」(森羅万象)なんですね。向かえばあるのです。見ようと思ったから見えたのではないのです。向かえばいきなりあるのです。音がすればあるのです。聞こうと思ったから聞こえたのではないのです。音がすればいきなりあるのです。それがこの身心のありようなんですね。眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境と一つになって、この法身の今のありようが目の前に現れるのです。
縁に触れて理由なく、壁になり、畳になり、鳥の声になり、線香の香りになり、お茶の味になり、暖かさになり、思いになり、苦しみになり、喜びになり、青空になり、夜空になり、月になり、星になり、カーテンになり・・・と次から次へと変化していくのです。すべてこの身心の現れです。森羅万象はこの身心と宇宙と一つになって現れる宇宙の壮大なはたらきです。
思いの中にしかない自分という思いが忘ぜられ、「諸法の仏法なる時節」である宇宙がこの身心を通して現れ、この身心を通して壮大な宇宙が千変万化しているのです。〔極小は大と同じく 境界を忘絶す、極大は小に同じく 辺表を見ず。『信心銘』〕
「諸法の仏法なる時節」には、迷と悟、迷悟と修行、生と死、衆生と諸仏など人間の相対概念(他の概念と相関してはじめて存在しうるような概念)は、「迷」〈思い中にしかない自分を中心として振り回されること〉があるから「悟」〈無我に目覚めること〉があり、「迷悟」があるから「修行」があり、「生」があるから「死」があり、「衆生」〈思いの中にしかない自分を中心として振り回される人〉があるから「諸仏」〈無我に目覚めている人〉があるとも言えるのでしょう。
同様に、善い悪い、好き嫌い、幸不幸、勝劣、大小、左右、上下、前後などあらゆる人間の相対概念は、一方が有るから一方が有り、一方が無ければもう一方は無いのです。しかも、このような人間の相対概念は、人間が観念の上で想像したものでしかなく〈観念とは、人間が意識の対象について持つ、主観的な像で、心理学的には、具体的なものがなくても、それについて心に残る印象でしかなく〉、物理的には全く存在していません。つまるところ、迷悟も、生死も、諸仏衆生も、人間の相対概念でしかないので、皆有るのでもなく無いのでもない、と言っても支障がないのです。存在するのは、宇宙のはたらきであるこの身心の、法身であるこの身心の今の様子だけです。
「実に、諸法は仏法だ、すべては仏だ」と、道元禅師様、あなたはおっしゃるのですね。感謝合掌礼拝します。
合掌*注:《 》内は御抄編者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。
合掌