『第一現成公案』第九段〔法であるこの身心のはたらきに気づき親しむことが、法を求めることだ〕

〔『正法眼蔵』原文〕                           人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際ヘンザイを離却リキャクせり。        

法すでにをのれに正伝ショウデンするとき、すみやかに本分人ホンブンニンなり。         

〔抄私訳〕                  
文の通りに理解すべきである。本当にこの道理ははっきりしている。「本分人」〈法そのものの身心〉とは、ただ本覚(本来さとりの性)の道理などというほどのことである。「離却せり」(離れている)とは、どんなことがあっても、「法すでにをのれに正伝する」(法がすでに自己に正しく伝わる)に至っているので、身心を離れることがないことを表す言葉である。         

〔聞書私訳〕                            /「法をもとむる」ならば、「はるかに法の辺際を離却」(法のほとりを離れる)するのである。これは、ただむなしく法を求めてはならないということかと思われる。そうではあるが、求めないで正伝の法はないから、当然求めるべきである。もっとも、求める時刻には、法と人が「離却」するということも一理ある。「正伝」とは、「汝、吾が皮肉骨髄を得たり」〈達磨大師が弟子に法を伝えた時の言葉:汝は吾の仏法の真髄を得た〉であり、「吾も亦是の如し、汝も亦是の如し」〈六祖慧能禅師が弟子を認めた時の言葉:吾も是くの如く法の身心であり、汝も是くの如く法の身心である〉である。この時「本分人」〈法そのものの身心〉と言われるのである。「法の辺際を離却せり」(法のほとりを離れている)という言葉に関して理解の仕方には二つある 

/一つは、自己の外に法を求めるという道理があり得ないところを指して、「求める」という言葉を「離れる」と言う。二つは、「一方を証すれば一方はくらし」〈一方を明らかにすれば、一方は暗い〉という意味合いで、「離却」と使うのである。           

/或る人が語るのに、「『人、はじめて法を求むる』と言う次に、『離却』という言葉がある。この『離却』はさとりと思われる、法を求めるのであるから」と言う。非難して言う、「この考え方は、この草子の大意に迷うからである。誤った道理を出して正しい道理としようとするために、『はるかに法の辺際を離却せり』と言うのである。これは世間の道理である。『法すでにをのれに正伝するときすみやかに本人分なり』〈法はすでにこの身心に正しく伝わっているので、もとから法そのものの身心である〉ということこそ、仏法に落ちつくのである。」と。用いるべき道理である。         

また、ある人が言う、「『本分人』の本の字は、法と理解できそうである。『法すでにをのれに正伝するとき、すみやかに法分人なり』とも言うことができる」と。「本」を「法」に取り替える意である。      

また、非難して言う、「とりわけ『本分人』と言うべきである。すでに『正伝』のときは、法と人と一体であるから、『本分人』と言うことは、法を人と等しくする意味合いに叶っている」と。用いるべき道理である。                         

〔『正法眼蔵』私訳〕                        〔本来、人と法は一体であるが、〕人がはじめて法を求める時、〔人の外に法があると考え違いをするために、〕遙かに法のほとりを離れている〔と錯覚する〕。(人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。)

しかし、法はすでにこの身心に正しく伝わっているので、もとから法そのものの身心である。(法すでにをのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。)

〔『正法眼蔵』評釈〕                         煩悩だらけ、執着だらけの自分なんかが法を求めるなんて、とても無理。自分の闇は深く、法とか言われても何だそれは?地獄にいるオレなんか、もうどうなってもいいんだ、法を求めるなんてちゃんちゃらおかしい。自分なんか・・・。自分なんか・・・。自分なんか・・・。人間の数だけ、自分なんか・・・の自己限定や自己卑下や嘆きや苦しみや様々なネガティブな思いがあるのでしょうか。人間って、そんなにも苦しまなければならない存在なのでしょうか。自分なんか・・・というのは、本当にそうなんでしょうか?〈人、はじめて法を求めるとき、はるかに法の辺際を離却せり。〉        

今、顔を上げると、何か見えませんか。見ようと思わなくても、見えませんか。横を向く。どうしようとしなくても、さっきまでの映像は完全に消え、新たな映像が目の前に現れませんか。と、今、音がする。聞こうとしなくても、聞こえませんか。風が吹いてくる。どうしようとしなくても、風が感じられませんか。暑いので冷蔵庫から麦茶を出して飲む。どうしようとしなくても、冷たい心地よさが身心全体に広がりませんか。「美味しい」と思う。「うれしい」と思う。思おうとしなくても、思いは浮かんできませんか。逆に思うまいとしても、思いは浮かんできませんか。見るまいとしても、見えませんか。聞くまいとしても、聞こえませんか。味合うまいとしても、味がしませんか。

内蔵器官は私たちの思い通りには動きませんが、刻々とはたらき続けてくれています。私たちの身心は、何と微妙で、不可思議なはたらきをしてくれているではないでしょうか。一時も休まず、何のリターンも求めず、何の文句も言わず、ただただはたらいてくれています。この奇跡のようなはたらきが、万人の身心に具わっています。この身心のはたらきを法〈法則、仏の在り様〉と言ったりもします。今見える、今聞こえる、今香がする、今味がする、今触感がある、今思いが浮かぶ、しかし私はいない。今宇宙がここにこのように現れている。すべてによって無限のいのちを今ここに生かされている。何とありがたいことではないでしょうか。〈法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。〉                  

今、今、今、この身心のはたらきに気づき親しむことが「法を求める」ということではないでしょうか。今、今、今、ただただ感謝、合掌、礼拝です。        

注:《 》内は御抄編者の補足。〔 〕内は著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。                                              
                         合掌

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