『第一現成公案』 第十段〔もし日常の行住坐臥を親しく行じて仏のありようであるこの身心に帰えれば、現前するあらゆるものが自分という思いの上にあるのではないことがはっきりする〕   

〔『正法眼蔵』本文〕                           

人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。     

目をしたしく舟につくれば、ふねのすゝむをしるがごとく、身心シンジンを乱想ランソウして万法マンボウを弁肯 ベンコウするには、自心自性は常住なるかとあやまる。                   

もし行李アンリをしたしくして箇裏コリに帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。  

〔抄私訳〕                  
これは今喩えとなるのである。たしかに、舟に乗って岸を見れば岸が移動するように見える。けれども、岸が移動するのではなく、舟が進むように、身は無常(常に存在しないもの)であり、「自心自性は常住」(自分の心と本性は常に存在するもの)のものと誤ることは、移動して行かない岸を移動して行くと見るほどの正しくない見解である。このようなことの喩えにあげられるのである。つまるところ、身心の二つをそれぞれ別のものと説くべきではない。「常住」と説く時は、「身心」はともに「常住」であり、「身心」は決して違うものではないという道理を述べられた段である。       

〔聞書私訳〕                        
/「身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる」〈身心を乱りに想いめぐらして現前するあらゆるものを仏道修行すると、自分の心と本性は常に存在すると誤る〉というように理解し、「万法のわれにあらぬ道理あきらけし」〈現前するあらゆるものが自分という思いの上にあるのではないことがはっきりしている〉というのに対して、〔常住なるものを〕「自心」と受け取り、また「自性」と言えば、「自己を忘れ、万法に証せられ、身心脱落」〈自分というものが思いでしかないことに気づき、現前するあらゆるものによって自分という思いがついていない真の自己のありようが明らかにされ、自分の身心と他者の身心とは別だという錯覚から脱け落ちる〉とは言えない。また身心を乱想しないような時は、本当に「自心自性」は常住であろうか。説心説性(心と説き性と説く)を嫌って、却って説心説性を仏法と言うようなものである。  

/「万法共に我にあらざる時節、迷なく悟なく諸仏なく衆生なく」〈現前するあらゆるものが皆無我である時節、迷・悟は無く、諸仏・衆生は無く〉と言う。何が常住であろうか。結局この段は、乱想を嫌って常住を取ろうということでもない。「あやまる」と言うのであるから、舟を自性に喩え、岸を身心に喩えようというのでもない。ただこれは、誤ることを言うのであるから、岸の移動することをも言うのである。「箇裏コリ」というのも、別に何を指すとは言わない。「箇裏」は仏法〈仏のありようであるこの身心〉である。「万法のわれにあらぬ道理」とは、例えば、三界唯一心(あらゆる世界は一心である)の時、諸法実相(すべてのものは真実の姿である)というほどの意である。

/舟と岸の喩えが出てくることは、「乱想」のことを言おうとするだけである。別に何を喩えにしてということではない

〔『正法眼蔵』私訳〕                      
人が、舟に乗って行くときに、目を遠くにやって岸を見ると、岸が移動すると錯覚する。(人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。)             

目を直接舟につければ、舟が進むことを知るように、身心を乱れ想って現前するあらゆるものを仏道修行すると、自分の心と本性は常に存在するかと錯覚する。(目をしたしく舟につくれば、ふねのすゝむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯 するには、自心自性は常住なるかとあやまる。)                  

もし日常の行住坐臥を親しく行じて、仏のありようであるこの身心〈仏法〉に帰れば、現前するあらゆるものが自分という思いの上にあるのではないことがはっきりしている。(もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。)     

注:《 》内は御抄編者の補足。〔 〕内は著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。                                 

合掌

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