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譜面でベトナム語教えてみた

この note は松浦年男先生が企画されたアドベントカレンダー 2024「言語学な人々」の 8 日目の記事として書かれたものです。

私はベトナム語の研究しています。「なんてマイナーな言語を」と思うかもしれませんが、ベトナム語の話者人口はざっと 1 億人程度で、これは世界中に何千とある言語のなかで上から十何番目にあたる規模です。なのでれっきとした大言語ですが、言語学の中ですらまだあまり開拓されていないのが現状です。研究者の数はじわじわ増えてきていますが、もっと盛り上がってくれることを望むばかりです。

さて、私はベトナム語の中でもとくに発音の面に関心をもっています。なぜなら、ベトナム人的な言い方をすると発音がとても「豊富 phong phú」だからです。私は興味がかなり音の方面に偏っている人間なので、この性質を面白がってベトナム語を選びました。ただ、多くの学習者にとってこの豊富さ、もとい「複雑さ」はネガティブに映ると思います。実際かじったことのある方ならわかると思いますが、発音の基礎をやるだけで数カ月はゆうにかかります。この発音の壁に阻まれて挫折した、という話もよく聞きます。この発音の壁問題について、ベトナム語に携わるものとしてなんとかできないかとぼんやり思っていました。

ところで、私は2022 年のアドベントカレンダーの記事に「ハノイ方言は 3 拍子だ」という博論のエッセンスとなる考えを紹介しました。

簡潔にいうと、ハノイ方言の音節は 3 拍子の譜面で表現できるような構造をなしているということです。ベトナム語は声調と呼ばれる「旋律」が各音節にくっついているのですが、それが母音や子音といった「歌詞」とどういうタイミングで結びつくのかを、譜面にすると結構うまく整理できます。

”Tôi đang học tiếng Việt.”「私はベトナム語を勉強しています」の譜面の例

この「ベトナム語譜」を初級学習者の補助教材として利用できないか、というのがこの記事の主旨です。今年度とある大学でベトナム語初級の授業を担当し、実際にベトナム語譜を使ってみたので、この記事ではその利点と使用感について書いていきます。

なお、担当した授業ではベトナム語のハノイ方言について教えていました。ホーチミン市などほかの地域でも同じような記譜ができるのかは、目下研究しているところです。なので、この記事ではハノイ方言の発音について扱います。

ベトナム語譜の利点

ベトナム語譜の利点は大きく 2 つあると思っています。ひとつめは各音節の声調(=旋律)を視覚的に示せることです。ハノイ方言の声調は少なくとも 6 種類、細かく数えると 8 種類あります。各声調を譜面に示すと以下のようになります。

ma, mà, mả, mã の譜面
má, mạ, mát, mạt の譜面

すべての音節はこれら 8 種類のいずれかの声調をもちます。この言語を始めて間もない学習者にとっていきなりこれらの声調を区別して読んだり聞いたりするのはかなり重いタスクです。正書法にも補助記号の形で声調の種類とある程度のピッチ型は示されているのですが、譜面にすると各声調のピッチ型をより具体的に表現できます。また、たとえば má と mát などを比べるとどちらも声調記号が同じなのですが、はじまりの高さがかなり異なっています。これは「á, ạ という声調記号は末尾に p, t, c などを伴う場合とそうでない場合とで高さが異なる」という規則としてまとめられるのですが、ただでさえ音調の種類が多いのに初学者にその規則まで覚えることを要求するのは酷です。譜面にすると、そういう規則について触れずに高さの違いを示しておくことができます。(ただし、ある程度学習者が声調の発音に慣れてきたところで、改めてこの規則については触れておくべきでしょう。)

また、正書法上では母音や子音の長さが直接的に示されていないことが多いです。たとえば、"cui", "quy" という音節の頭の c, q の部分はどちらも [k] と、末尾の i, y の部分はどちらも [i] と発音します。なのでそんなに音構成は難しくないのですが、"cui" は「クーイ」のように u を i より長く発音する一方、"quy" は「クイー」のように u より y (=[i]) を長く発音しないといけません。

"cui", "quy" の譜面

このような母音や子音の比率の違いは一応規則化できるのですが、ひとつにまとめることはできずどうしても複雑なものになります。このように譜面化すれば、その辺の複雑な規則には触れずに母音・子音の比率について示すことができます。

さらに、実際に発音するうえではこの母音・子音の比率と声調の兼ね合いも大事になります。たとえば、さっきの音節に上昇調のかかった "cúi", "quý" の場合、"cúi" は「クー⤴イ」のように u から i への切り替わるタイミングでピッチを上げますが、"quý" は「クイー⤴」のように u から y (=[i]) に切り替わってからピッチを上げます。耳で聞くと、ピッチアクセントを区別する日本人なら簡単にまねできるものですが、正書法にはタイミングに関する明示的情報がないので初学者はだいたい引っかかってしまうのです。このあたりも譜面にすると明示しておくことができます。

"cúi", "quý" の譜面

このように、ベトナム語譜は正書法に直接反映されていない音調や母音・子音のタイミングの情報を明示しておくことができます。また、それをガイドとして示しておくことで、初学者が発音を訓練するときの頭のリソースを多少節約できるのでは、と思います。(ただし、ある程度慣れてきた段階でガイドははずして、正書法のみで正確な発音を出せるように訓練する必要もあるでしょう。)

ベトナム語譜の使用感

私は教科書の課文の解説の際にベトナム語譜を利用していました。その際、以下のように各音節の正書法表記の下に各語の語釈を振ると、各文の構造などを説明するのに便利だと思います。

ベトナム語譜に語釈を追加した例

このように各語の近くに語釈が振ってあると、学生側からしても新出単語の意味をぱっと把握しやすいという利点があるかもしれません。ちなみに、この譜面をスクリーンに映して発音をしてクラス全体に復唱させるとなんだか指揮者になった気分を味わえます。(どうでもいいですね。)

また、学生の反応もそこまで悪くなかったのではと思います。今年もったクラスの最後の授業で「楽譜についてどうだったか」とアンケート的に聞いてみたところ以下のような回答がありました。

個人的にすごくわかりやすかった
あれがないと読みにくい
分かりやすかったです
ないと困ります
とてもわかりやすかった
めちゃくちゃ意識しやすかったです
助かりました
楽譜があったおかげで、一気に分かりやすくなった
めっちゃ分かりやすかったです
わかりやすかったです
あれがないと小テスト終わってました
助かりました
あれがないとできません
音程と意味も一緒に見れてとても助かりました
テスト前は楽譜で勉強しました
発音がやりやすくなった
わかりやすかったです
あの楽譜を見るのがたのしみでした
私は楽譜が読めません
画期的でめちゃくちゃ良いとおもいます

ちなみに回答にある「小テスト」とは課文の発音を確認するもので、「楽譜は見てもよい」と指示していました。私はまだベトナム語の授業をこのクラス以外にもったことがないので、いわゆる対照群がないのですが、それなりにいい反応が得られているように思います。休み時間に「楽譜ないとマジで無理」というつぶやきが聞こえてきたこともありました。もちろんこの方法にあまり馴染まない学生もいたと思いますが、正書法だけで授業を進めるよりはずいぶんましだったのではと考えています。

おわりに

ベトナム語譜により、冒頭で述べた「発音の壁問題」がすべて解決するとは到底思いません。ベトナム語譜はタイミングや音調の区別に関するガイドにはなりますが、ê–e, ô–o–ơ のような音色の区別に関するガイドにはならないからです。しかし、タイミングや音調のガイドがあれば、そういった難しい音色の区別に集中させることができるのではと思います。まだまだ試行錯誤中ですが、今後も言語学の知見を教育の方にも還元できるように努めたいです。

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