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民主主義を考える 終わりなき人の営み

* 2022年4月24日に福井新聞「ふくい日曜エッセー」に寄稿した文章です。https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1542567


 民主主義とは何か? 世界がコロナ禍と戦禍をともに経験する中、民主主義の在り方が根本から問われる時代を私たちは生きている。今回は、民主主義という言葉を聞くといつも脳裏に浮かぶスイスの小さなまちでの思い出話をお届けできればと思う。

 スイス東部に位置するアッペンツェル。直接民主主義が息づくまちだ。毎年4月に3千人ほどの住民が広場に一堂に会し「青空住民議会」が開催される。議会のはじめには行政から昨年度の会計報告があり、その後、様々な議題に関して、住民が右手をあげるかどうかでまちの政策が直に決まっていく。住民が代表となる議員を選出し、その議員が議会で決定行為を行う間接民主主義とは異なるスタイルだ。参加と責任はセットであり、住民の右手には責任が直接かかってくる。青空住民議会はその最高意思決定機関だった。

 青空住民議会という直接民主制の仕組みにも当然ながら長所と短所がつきまとう。しかしながら、地域の人々が集まり、意見を述べ合い決定していく姿には、民主主義への人々の社会的意志を示すのに十分な力で溢(あふ)れていた。自分たちのまちのことは自分たちで決めていく。分権社会であるスイスの自治の精神を凝縮したかのような一場面に圧倒された。

 さて、少しの間このまちに滞在することを決めたのだが、困ったことがある。端的にいうと物価が高いのだ。レストランで食べていては旅を継続することはできない。こういうときは、パンとチーズでも買って、屋外の雰囲気がよいベンチに座って食べる。それが自分流の対処法だった。特に、スイスの景色はどこを見ても息をのむ美しさであり『アルプスの少女ハイジ』の世界。至る所に素敵(すてき)なベンチがあり、選択肢はあまたあった。その中でもすごく惹(ひ)かれた机つきの一つのベンチがあった。空も暗くなりはじめたころ、そこで一人、パンをかじりはじめた。

 するとなぜかそのベンチに人があつまりはじめた。アフリカのソマリアから来たという彼、アフリカのエリトリアから来たという彼、はたまたチベットから来たという彼。私は当然ながら驚いたが、彼らも驚いたことだろう。なぜここに見知らぬ東洋人が座っているのだと。そのベンチは、母国を離れ難民としてスイスに移り住んで来た彼らが、夜な夜な集う“アジト”と名づけた大切な居場所だった。気があい、話が盛り上がった。ビールを2本ももらった。なんとも愉(たの)しい晩餐(ばんさん)となった。ただ、自分に刻まれたことがあった。あなたはなんでこのまちに来たんだと聞かれて、「青空住民議会」を見たくて来たんだ、と答えた。

 しかし、彼らは、その存在自体を知らなかった。あれほど人が集まり、政治的決定を行う象徴的なイベント。それだけでなく、青空住民議会の後には、人々の交流がまちに溢れ、レストランでは地ビールを飲む姿が夜遅くまで見られる特別な日、なのにだ。間違いなく青空住民議会の存在は民主主義における世界の良き事例の一つであると思う。それでも、彼らとの接点がまったくないという事実に、頭を殴られた気分だった。

 その日以降も、まちを紹介してくれたり、彼らと時間をともにした。まちを離れる前には、チベットからきた彼の住まいに招かれ、チベットの蒸し餃子(ぎょうざ)であるモモをふるまってくれた。そして、彼の夢や希望に聴き入った。

 話を戻そう、民主主義とは何か? 答えは簡単には出そうにない。しかし、政治体制の在り方だけを意味する言葉ではないことは確かだ。その概念の範疇(はんちゅう)は、山よりも高く海よりも深い。一人ひとりが持つ尊厳と可能性の価値を認め合うことに立脚する営みであり、そして、それは終わりなき営みであること。私はそう教わった気がする。

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