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動力を受けて素直になった子

2001年11 月にリリースされた真心ブラザーズの「人間はもう終わりだ!」という曲。
世紀末の不穏のあとミレニアムを迎えた世界は根拠のない安堵と多幸に包まれていたけど2001年9月11日それらはすべて灰になってしまった。

俺はその日17歳の誕生日だった。
高校は違う中学の同級生が中型バイクでという当時桜木町にオープンしたばかりだった「監獄レストラン ザ・ロックアップ」に連れて行ってくれた。
刑務所をモチーフにした飲食店で警官のコスプレをした店員さんにドキドキしたのを覚えている。
パッケージされた演出、慣れない酒と美味しくはないけど派手に盛られた料理で気分は高揚していた。
帰路、コスモワールド付近でゲリラ豪雨に遭った。
23時頃、びしょ濡れのまま家に着くと他の家族は既に就寝しており2階のリビングに上がりテレビを点けるとどっかのビルに飛行機が突き刺さり真っ黒い煙が立ち上っていた。
当時、NEWS23のメーンキャスターを務める筑紫哲也さんがモニターを眼光鋭く注視する表情をよく覚えている。

本来、感じえぬべき感情を17歳の日に突きつけれらた俺はその日をどう終えたのかは今となっては思い出せない。

翌朝、登校前に家の前にある団地内に併設された小さな公園でいつも通り友達のマコと待ち合わせて「昨日の見た?やばくね?」とお互い口にして煙草を2本吸って缶コーヒーを飲んでから学校に行った。

当時の高校生なら大抵の連中は携帯やPHSを持っていたけど通話とメールと着メロの打ち込みくらいしか利用用途はないのでニュースは情報は基本テレビ中心だった。

その朝とても緊張していた。
きっと誰からともなく昨日のニュースの話題になるんだろうと。
「アメリカはどうなるんだろう」
「ニュースで聞いたアルカイダって一体なんなの」
「というか日本は大丈夫なの」
薄らぼんやりする頭の中を周回する言葉を意識しつつ教室に入ったが、
ほとんどのクラスメイトが昨夜の件を口にしていなかったんじゃないかな。。
もちろんそこまで詳しいことは一夜明けただけではわからなかった。
しかし、あまりにも変わらぬ日常というか変化を拒むように強引に通常営業する日常に違和感を覚えた。

本当はみんなあのことについて話したかったけど、自分からは切り出しにくかったのかな。
それとも、映画やゲームのように現実味がなさすぎて追いつかなかったのか。
まったく関心がないことなんてないだろう。
なんだよ、俺だけ勝手に想像を膨らましてるだけなのか。
どうするよ、日本であんなことがあったら。
めちゃくちゃ怖えよ。

普段まったく集中できない授業がいつも以上に集中できない俺は午前中には母ちゃんが作ってくれた弁当を食べ終え机に突っ伏してCDウォークマンでナンバーガールの「SAPPUKEI」をリピート再生していた。
いくらボリュームを上げてもこみ上げ続ける違和感はじっとりと心に張り付いたままだ。

それから2ヶ月して冒頭にYouTubeを添付した真心ブラザーズの「人間はもう終わりだ!」のシングルがリリースされた。
シンプルでパンク演奏に痛烈な皮肉とメッセージ。
ああ、あの事件のことを歌ってるなとすぐにわかった。
けれども、当時のインタビューではテロ事件が起きるに書いた曲だと語られており背筋が凍った。
今になって考えると現代の配信主流でない音楽業界においてはここまでタイム感のあるCDリリースは不可能に近い。

余談だが芸術が現実を予見する事象は他にもあって、1997年読売新聞夕刊において連載がはじまった村上龍の「イン ザ・ミソスープ」は日本に来日したとある外国人男性が連続猟奇殺人を犯す内容である。
そして、新聞連載中にあの神戸連続児童殺傷事件。
俺の世代で言う酒鬼薔薇事件が起きた。
当時、中学1年生だった俺は学校から帰ると自分の部屋がなかったのでトイレに篭って音楽を聴いたりエロ本や漫画を読んだりしていた。
新聞もよく読んでいたので「イン ザ・ミソスープ」は連載当初から追いかけていので事件当時の衝撃は今でも忘れることはない。

作者もまさかそんなことが現実に起きてほしいなんて思って作品を作っているわけではい。

でも、あの頃以上に人間は終わってきているし人間は壊れはじめてしまったと切に思う。

それでも明日はやってくるし生きていかなくちゃいけない。

快楽主義者で博打打ちの自分でさえ毎日の出来事に喰らって削れて生きている実感がある。

そして、無神論者の俺が現代でも強い影響を与えているキリストさんについて知りたくなった。改めてどんだけ凄えやつなだろうと。

ただ聖書は俺には難しくて、学のない俺でもキリストさんを理解しやすい本はないかと色々調べていたらフランスの哲学者パスカルさんが書いた「パンセ」という本に出会った。

以下、NHK「100分 de 名著」より抜粋。

「パンセ」は、フランス語で「思想」を意味します。
「人間は考える葦である」「クレオパトラの鼻が低かったら世界は変わっていただろう」など、様々な名言が散りばめられています。
著者のブレーズ・パスカル(1623-1662)は、思想家であると同時に科学者でした。計算機の発明や大気圧の研究で知られ、気圧の単位・ヘクトパスカルにその名を残しています。
「パンセ」は科学者の視点で、人間の心の特徴を分析した書と言えます。
パスカルが生きた時代のヨーロッパでは、科学が著しく進歩し、キリスト教に基づく世界観に疑問の声があがり始めていました。そして人間の理性が、世界の真実を明らかにするという思想が急速に広まっていました。
しかし世の中を冷静に見つめていたパスカルは、理性こそ万能だという考えには、危うさがあると確信するようになります。
「人間はおごってはならない」と考えたパスカルは、人間の弱さを明らかにするため、日々考えたことをメモに書きとめました。
それをまとめたのが「パンセ」です。
そこには現代文明のもろさがあらわになった今こそ、改めてかみしめたい言葉があふれています。
なぜ人間は同じ過ちを繰り返すのか—「パンセ」は、まるで科学の法則のように、合理的で冷徹な視点にたって、人間の心の特徴を明らかにしています。


きっとこれからの自分にとって大事な本になると直感し購入した。
そして、俺の勘は間違っていなかったと確信した。

だからと言って特定の思想に賛同し宗教に入会するつもりはないのだが、
俺という人間と俺に関わってくれる人を少しでも幸せにしたいから俺はパスカルさんの思想信念主義主張を拝借することにした。

以下、パンセより抜粋。

この世のむなしさを語らない人は、その人自身がまさにむなしいのだ。
それで、騒ぎと気を紛らわすこと、将来を考えることの中に埋まっている青年たちを除いて、それを語らない人があるだろうか。
だが、彼らの気を紛らわしているものを取り除いてみたまえ。
そこで彼らは、自分の虚無を、それとは知らずに感じるだろう。
なぜなら、自分というものを眺めるほかなく、そこから気を紛らわすことができなくなるやいなや、耐え難い悲しみに陥ることこそ、まさに不幸であるということだからである。

俺は人間が終わっても壊れてもまだみんなが自分でいられるのならやり直せると思うよ。

そういう世界であってほしいと心から願う。

パスカルさんは39歳でこの世を去った。
俺は今年パスカルさんが死んだときとタメになる。

冷静に広い視点を持って理性が必ずしも正解ではないことを意識してみるよ。

今日は以上。

こいつ頑張って書いたじゃんと思ったら記事を購入してくれると嬉しい。
明日、投票だね。
しんどいときはしんどいって言った方がいいよ。
少しでも楽にやっていこうぜ。

パンセ (中公文庫 D 8)


壊れる夜もあったけれど 自分でいられるように

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