見出し画像

わかっちゃいるけどやめられる

11月上旬、アルバムのマスタリングが終わりました。
マスタリングとは簡単に説明すると曲のレベル調整や曲間、最終的な音の調整作業です。
4年半振りに調布のピースミュージックを訪れましたがエンジニアの中村宗一郎さんは特に変わった様子はなくいつも通り飄々としていて安心しました。
バンドのレコーディングだとメンバーやスタッフも同行しますが今回はメンバーもスタッフもいないので1人で。
事前に中村さんにデータで音を送っていたので手ブラでスタジオで。

90分ほどの作業を終えて、中村さんからの感想は「濃いですね」。
捉え方が難しい一言でしたが、時間だけはかかった作品なので濃度はあるでしょう。

現在、リリースに向けて画策していますがまずCDで出してから配信を開始しようかなと思っています。
なかなかどうしてCDが売れないのは百も承知ですが、まずはCDというフォーマットでジャケや歌詞カードも楽しんでもらいたいという気持ちが強いので先発でCDをリリースします。
その後に配信。そして、サポートしてくれる会社からLPとカセットでのリリースも計画中です。

さもすれば、数回のクリックで皆さんの音楽サブスクで聴ける算段は取れるのですが今回は作るものの数も少なくなるのでまずは迂闊に消費されないような立ち回りを取ろうじゃないかと考えています。

「音楽表現」というものに対して、ここ数年はいかんせん悩みが尽きないです。
僕のフィールドですら、奥歯を噛みしめるような状況なので所謂メジャーに所属するアーティストはもう噛む奥歯もすり減っているかもしれません。

その一旦は日本における芸事のレベルの低下が起因していると考えています。
資本ありきで芸を回すとなると不可欠になるのが広告とマーケティング戦略。
この図式はおそらく国内に電通が生まれてから大きく変わっていないと思うのですが、それらを捌く人間と受ける客の質があまりにも変わってしまったなと傍観しています。

特に受け手側の客がここ数年で大きく変わりました。
鑑賞に対する集中力です。

どうしたって抗えない利便性ですが、例えば3分の曲すらまともに聴かれなくなり美味しい部分だけが切り抜かれるようになりました。
前後の文脈や行間、空白。
「間」という空気感をいつしか味わうことは減っていきした。

映画の本編が終わりエンドロールが流れ客電が灯るまでの数秒の間。

あの名残惜しく現実に回帰する空気が僕はたまらなく愛おしく感じます。
これは映画だけではなく、音楽、文芸、落語に漫才、言葉を用いる表現には全て共通することです。

僕は自分の作品を聴いてくれる人にはこの「間」を感じてほしい。

だからこそ、高橋翔の作品に金を出してくれる人のは自分なりの誠意として
理解してくれることを望みます。



ここから先は

93字

¥ 100

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?